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夢中の先に進路が見える 「一身独立して一国独立す」後日談(清原 武彦)2014年1月

例えば「先輩から後輩に伝えたいこと」といったテーマで書けないか──という注文を会報委員会の方から受けて、ちょうど平成25(2013)年の慶應大学卒業式で、後輩に向けてOB代表あいさつをしたことを思い出した。

 

社会人として巣立つ心得として、「福澤諭吉精神に学んだ君たちには、自分のためではなく、社会のために働く気概を持ってもらいたい。まさに『一身独立して一国独立す』だ」と、われながら格好良く締めたつもりだった。

 

だが自らの歩んだ道を振り返れば、よくもこんなことを平気で言えたものだと、汗顔の至りだ。

 

以下は、この時話せなかった、私自身の進路探しの回顧談である。

 

■検事の父からの一言

 

「お前はどういう職業に就こうとしているのかね」

 

大学2年か3年生の頃だったろうか。父から何気なさそうに聞かれて、「ついにきたか」と思った。

 

その時まで自分の将来について考えていなかったわけではない。本心は小説家になりたかった。だがそれは無理としても、何か文筆に関わる職に就けないかと思い巡らせてはいた。

 

「できれば新聞記者になりたいと思っています」ととっさに答えたら、「無理だね」と一言の下に切って捨てられた。「お前のように、寝転がって本ばかり読んでいるヤワな人間に、新聞記者のような厳しい仕事は務まらない。弁護士を目指したらどうかな」

 

自ら検察の世界に身を置き、新聞記者の取材に追い回された経験を持つ父は、それだけ新聞記者の粘り強さ、ある意味での泥臭さも感じ取っていたに違いない。だが「弁護士」と言われても私には司法試験を受ける意思も能力もなく、こればかりは自分の希望を通させてもらった。

 

首尾よく産経新聞社に入社することはできたが、入って早々、父の警告がいかに的を射ていたかを痛いほど思い知らされることになった。

 

さっそく社会部に見習いで回され、出先記者が電話で送ってくる記事を原稿用紙に埋めていく作業、いわゆる「原稿取り」をさせられたが、これがなかなかの難物だった。

 

「ちゃんと俺の言った通り書け。お前、そんな単語も知らないのか」

 

「駄目だ。そんな甘えた仕事ぶりでは。そこで待っていろ。俺がいま社に上がって絞ってやるから」

 

いや、当時の先輩記者たちによる後輩のしごき方の手厳しかったこと。

 

■先輩にしごかれ書いた「一文字号」

 

その後、私の記者生活は、思わぬコースをたどった。見習い期間後に多くの同僚は支局に回されたが、私はいきなり社会部に配属された数人の中に入った。しかも、都内版一面の作成を、新人の私一人に任せられたのだから驚いた。毎日、トップ記事1本、段もの2本、コラムを1本、それにベタ記事数本を一人で書くのがノルマだから、まさに殺人的だった。

 

昼頃、デスクに連絡の電話を入れて「今日はまだネタが見つかりません」と泣きをいれると、「そうか。それじゃ明日の紙面は『今日は記事がありません』とお断り付きで白紙で出すか」と無情な声が返ってきた。

 

「ネタが無い時は動物園へ」という業界の「言い伝え」を思い出して、ある時ワラにもすがる思いで上野動物園の飼育係に取材したら、本当に思わぬ掘り出し物にぶつかった。「今度、うちのロバに世界で初めて動物への入れ歯をするんだ」と言う。

 

「一文字号は上野動物園の名物ロバ」という書き出しで、この話を都内版トップ記事用に仕立ててデスクに見せたら、その原稿はそのまま社会面デスクに回され、なんと早版の社会面にトップ記事、最終版でも堂々と脇トップで紙面を大きく飾った。

 

他愛ない話ではあったが、「一文字号の清原」と、新人の私が初めて記者として認知された一幕となった。

 

当時の私に、「新聞は社会の木鐸である」などという使命感はなかった。ただ、与えられた仕事を無我夢中でこなし、自分の書いた記事が活字になった紙面を見て満足の笑みを漏らす日々だった。

 

■アメリカ留学で日本への疑問感じる

 

私の新聞記者としての意識が劇的に変化したのは、入社3年目で社内留学生試験を受けてパスし、アメリカに渡ってからだった。

 

1ドル360円の時代に社から与えられた手当は、1カ月にわずか200ドル。「皿洗いでもして、これまで知らなかった世界で苦労するだけ苦労してこい」という水野成夫社長(当時)の趣旨を受けて、私はあえて日本人の多い大都会を避け、ミシガン大学の聴講生となった。

 

まず驚いたのは、アメリカ人学生がよく勉強をすることだった。道端ですれ違った友人同士が交わす会話は「How is your work?」(勉強の進み具合はどうだ)。しかも、授業内容の幅が広い。政治学の講義を受けたが、折しもベトナム戦争の最中で、先生と学生が「アメリカの北爆は是か非か」を議論していた。

 

私も触発されて大学の図書館に通い、アメリカの一流新聞や雑誌を読みあさったが、そこにはアメリカが果たすべき国際的役割についての解説記事はあっても、残念ながら、日本のニュースは1行も載っていない。

 

日本の論壇誌や総合雑誌も置いてあったので目を通したが、そこにあふれていたのは左翼的な反米論調、そして「日本さえ良ければ」という「一国平和主義」の心情が透けて見えるような論文が多かった。

 

「果たしてこれで、日本は国際社会の中で一流の地位を占めていけるのだろうか」という疑問が初めて私の心中に芽生え、「よし、日本に帰ったら政治部記者を志望して、そこの部分を現場でじっくりと観察しよう」と思い立ったのである。

 

帰国後、いったんはまた社会部でサツ回りを命じられたが、半年後、希望が受け入れられて、政治部に入部した。

 

■「わが国の歩むべき道とは」

 

政治部では角福戦争のど真ん中に入って夜討ち朝駆けの毎日で、生まれた息子の顔を初めて見たのが誕生後3日目というような、これまた激務の日々が続いたが、こうした思い出話を始めたらキリがない。

 

政治部記者の経験を経て、以後、ワシントン支局長、政治部長、編集局長、論説委員長と紙面作成に長く携わり、社是である「正論路線」の維持、強化に直接、携わることになった。

 

そうした中で、「日本という国はこれでいいのか。どのような道を進むべきか」を考え続けることが、私の新聞人としての終生の命題となった。

 

思えば私が海外留学生として、外から日本を見つめる機会に恵まれなかったならば、進路は大きく変わっていたかもしれない。そして良き先輩たちに導かれ、同僚や後輩たちと意気を合わせて仕事に取り組めたという点でも、私は本当に運のいい人間だったと、いまにして思う。

 

■三浦雄一郎さんの言葉 胸に

 

さて、ここで冒頭に記した私の慶應大学卒業式でのエピソードに戻りたい。いま、このスピーチを繰り返すとすれば、何を付け加えるか。

 

それはどんな動機で自分の仕事を選んだにせよ、与えられた職務に夢中で取り組んでいけば、おのずと自らが進むべき道が見え、自分なりの新たな使命感も芽生えてくるだろうということである。

 

もちろん「運」は大事だが、運は切り拓いていくものでもある。自らの運命に懐疑的な方には、80歳にしてエベレスト登頂の快挙を成し遂げた三浦雄一郎さんから、私が直接うかがった次の言葉を捧げたい。

 

「自分の目標設定に限界を設けてはならない。目標が高ければ高いほど、それを成し遂げようという努力が高まる」

 

きよはら・たけひこ

1937年生まれ 和歌山県出身 慶應義塾大学法学部卒 62年産経新聞入社 ワシントン支局長 政治部長 編集局長 取締役論説担当兼論説委員長 常務取締役編集・論説担当・東京編集局長 専務取締役編集・論説・正論担当などを歴任 97年代表取締役社長 2004年代表取締役会長 11年から現職

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