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「見ぬふりできぬ」行動力 元日弁連会長、住管機構社長の中坊公平さん(藤井 良広)2013年12月

今年5月に中坊公平さんが亡くなられた。毎年頂いていた季節の便りの字数が少なくなり、心細さが感じられたので、「励ましに行かないと」と思っていた矢先だった。


中坊ファンのマスコミ人は少なくない。私は1990年代の金融危機の取材の渦中で知り合った。旧住宅債権金融専門会社(住専)の債権回収のための国策会社「住宅金融債権管理機構」(住管機構)社長として、獅子奮迅の活躍をするさまを追い続けた。


取材対象者の生き方に教えられ、人柄に魅せられることは、ジャーナリストの面白さであり、役得でもある。中坊さんは紛れもなく、そうした魅力的な人物だった。だが、いま、心に浮かぶのは、「中坊さんはすごかったね」だけでなく、「なぜ中坊さんはあんなに一生懸命だったのか」という問いである。


中坊さんは、住専問題の以前から、森永ヒ素ミルク中毒事件、豊田商事事件などで敏腕を振るったほか、元日本弁護士連合会会長として司法改革も推進した。住管機構時代も並行して、香川県豊島の産業廃棄物問題などを手掛け続けた。いずれの案件も、弁護士の領域を越える行動力と結論を導く着地力が持ち味だった。


豊島の住民たちが動かぬ行政に苦闘して、「自分たちで政治を変えよう」と、香川県議会選挙に島の青年を擁立した時だった。地盤も、カネも、名もない青年の素人選挙戦に、中坊さんは何度も応援に出かけた。


選挙終盤には、豊島の親島である小豆島に渡り、小さな選挙カーに乗って、随所で辻説法を展開した。応援の弁を語りながら、中坊さんは感情の高ぶりで、しばし泣いてしまう。うなずくのは島の女性たち。「よろしくお願いします」。選挙カーから連呼する中坊さんは、道端の犬にも、電信柱にも、街の看板にも声を掛けた。


日が暮れるまで島を巡り、その日のうちに京都に戻るため船着き場に着いた時だった。「ほら、藤井さん。こんなに違うで」と、私に自分の両手を握らせた。左手に比べ右手が冷たい。左手は、車内でマイクを握っていたため温かいが、右手は手を振るため車の外に出し続けたので冷えきっていた。中坊さんは満足そうだった。


単に名を貸すだけではない。檄を飛ばすだけではない。一縷の可能性に向けて、自らが率先して問題を突破しようとする。その半面、自分に依存し過ぎる者たちを一喝し、自立をギリギリまで求める。


その徹底ぶりの一方で、住管機構社長が無報酬だったように、経済的見返りをほとんど求めない。「ワシ、何でやろ」と中坊さんの自問を聞かされたことがある。「『恒産なくして恒心なし』ちゅうやつやろか」と。


有能な弁護士で旅館経営者でもあったので、経済的ゆとりがあったのは間違いない。だからご本人も「恒産」説を持ち出したのだが、それだけではなかったと思う。


「困っている人を、見ぬふりはできない」「自分のためでなく、人のためにどこまでできるか」。他者への共感と強烈な現場意識が、向こう傷を恐れない・突破力・の源泉だったのではないか。ある意味でジャーナリストに似通う。


十数年前、異能の弁護士は、新聞大会でこう語っている。「新聞は単に見えることを教えるのではなく、あるべき先を見越した価値判断を、社会の全員に教える『斥候』のような役割が本質ではないか」「新聞は企業性が前面に出て、公共性は後退を続けていないか」。新聞は社会のためになっているか。


「あんたらの問題やで」。中坊さんの声が聞こえてきそうだ。


ふじい・よしひろ▼元日本経済新聞経済部編集委員

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