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海、港、船・・・国際畑50年 (パート1) ガダルカナルからニューヨークへ――私の「国際化」事情(平山 健太郎)2013年11月

◆◇初めての海外取材・・・変貌する「戦跡」◇◆


「ホニアラ」という街をご存じだろうか?

南太平洋ガダルカナル島にあり、ソロモン諸島が1978年、英連邦傘下の独立国になってからは、その首都になっている。

この小さな街が、ちょうど50年前、私にとって初めての海外取材の目的地になり、私の国際化の、言わば原点になった。


1963年(昭和38年)、私はNHKの仙台中央放送局に記者として勤務していた。当時はやり始めていた「貿易自由化」に因んだテーマを地方局でも発掘してみないかという先輩の勧めがあり、素材を物色しているうち、石巻市にある「東北パルプ」社(現在日本製紙石巻工場)が、南洋の島で熱帯原生林を伐採し、パルプの原料として日本に輸入する、近々その作業を始める、という話を聞いた。北米やカナダの針葉樹より安価な熱帯原生林の樹木からでもパルプを作れる技術が開発された結果だという。

伐採現場は、ソロモン諸島中部べララべラ島の沖にあるバガという無人島。英当局との折衝などにあたってきた事務所は、ガダルカナル島のホニアラと聞いた。


ガダルカナルは、太平洋戦争の中盤、反攻に出た米軍が日本軍と激戦を交え、日本軍が2万余の戦死者を出して撤退を余儀なくされた島だが、この戦いで日本軍の主力となった第2師団は、他ならぬ仙台で編成された部隊であり、しかも、ガダルカナル撤退を含むソロモン諸島の争奪戦のピークだった昭和18年から数えてちょうど20年の節目。早速、現地取材を提案した。


提案は採択。ただし取材チームは東京から派遣する、と一旦決まったが、仙台での直属上司だった山手勇氏(報道課長)が「提案者に取材させろ」と猛烈に頑張ってくださり、当時としては異例の地方局からの海外取材という運びになった。

ゼンマイ仕掛けの16ミリカメラと録音機を手に、ただ一人、幾分の心細さを覚えながら、オーストラリア航空機で羽田空港を飛び立ち、まずシドニーに向かった。7月初旬であった。


この取材には私の個人的な関心もあった。父が宇都宮で編成された第51師団の応召の下級将校として、ソロモン諸島中部のニュージョージア、コロンバンガラ両島、さらに、これら両島に近い東部ニューギニアのサラモアなどを転戦し、サラモアで重傷を負ったからである。この重傷のため、父は潜水艦で内地に送還され、戦後の30余年を生きのびている。父の戦跡を一瞥しておきたいという願いもあった。


シドニーからオーストラリアの国内便TAAのプロペラ機で東京からの往路を途中まで引き返しながら、東部ニューギニア南岸のポートモレスビーへ。日本軍が山脈の稜線を越え、その灯を視界に収めながら、攻略できなかった港街である。日本軍の爆撃で沈んだ連合国側の大型輸送船のマストが、湾内の水面に錆びついた姿をさらしていた。

飛行機を乗り継ぎ、ラエ、ラバウルと撮影を続けた。赤さびた日本軍の高射砲や戦車、舟艇などが海岸一帯に散らばるラバウルの湾内に、日の丸を掲げた遠洋まぐろ漁船が停泊しているのが、なにか心強かった。


ラバウルからガダルカナル島までは、およそ1000キロ。このルートでTAAは主翼が機体の上にあるオランダ製のフォッカーを使っていたので、客席からの視界が広く、列島の撮影にはありがたかった。ブカ(ブーゲンビル島)に寄港し、夕方、ガダルカナルの空港に着く。日本軍が屍の山を築く突撃を繰り返しては挫折した、当時の米軍ヘンダーソン基地である。


◆◇日本人少年との出会いとその後◇◆


現地に駐在し、東北パルプ社の伐採権などについて、当時の英国行政当局との連絡にあたってこられた三井物産の大曾根賢一氏(故人)にお世話になり、お宅に招かれてご馳走になった。英国系の小学校に通う恒(ひさし)君という息子さんがいて、お宅のすぐ裏手の海岸に案内してくれた。日本軍のものか米軍のものか分からなくなってしまうほど錆びついた舟艇の残骸がある波打ち際で、恒少年が「鮫をよく見かける」「兵器の残骸など眺めていると、とても嫌な気がする」などと話してくれ、撮影し、録音した。小型のビデオカメラはもとより、カセット式のテープレコーダーさえなかった当時のことで、デンスケと通称されるゼンマイ仕掛けの録音機を使っての録音だった。


「戦跡の島」に住む日本人少年のこのさりげない話が大変印象的だった、と放送後の新聞評に取り上げられたが、この恒少年もその後、大手のプラント輸出会社の駐在員としてキャリアを重ね、湾岸戦争では、イラクの人質になった日本人の救出にも苦心した、と後日うかがった。現在も、関連会社の社長としてインドで活躍されている。


英国行政府の若い係官がジープで島の戦跡のあちこちを連れ歩いてくれ、激戦地アウステン山の麓では、日本兵のものらしい大腿骨を見つけたりした。私の取材旅行とたまたま時期が重なって、三井物産の前田松五郎副社長(当時)が、この島に視察にみえておられた。駐在員の大曾根氏が、手掛けておられる業務の中には、搾油用のココナツの集荷も含まれていたようで、ガダルカナルから伐採現場のバガ島まで500キロほどのソロモン海を、ココナツを運ぶ小型の貨物船で、列島伝いに航海する副社長に同行、つまり便乗させていただくことになった。


戦艦「比叡」「霧島」を含む日米多数の艦艇が沈んでいるところから、「アイアン・ボトム」(鉄を敷き詰めた)海峡と呼ばれるようになったガダルカナル島北岸の水道を横切って、米軍戦闘機の基地だったというラッセル島に立ち寄り、再び海に乗り出すと、間もなく日没。制空権を米軍に奪われたこの水域を、ガダルカナルへの補給のため、日本の駆逐艦戦隊が夜間に全速で航行し、米軍側が「トーキョー・エクスプレス」と呼んでいたそうだが、私たちのココナツ運搬船は、その航跡を逆に北上。南十字星の輝く夜空を見上げ、高いうねりに船酔いしながら、ニュージョージア島のムンダにたどり着いた。

ここもまた往時の激戦地で、錆びた日本軍の重機関銃の周りで子供たちが遊び戯れていた。全島山ばかりに見えるコロンバンガラ島、海軍予備士官だったケネディ大統領の魚雷艇にまつわる「武勇伝」の現場であるギゾなどの島々を経て、目的の小島バガに着く。


石巻や東京の事務所で背広姿を見慣れていた東北パルプの中堅社員たちが、上半身は裸、作業ズボンに地下足袋といういでたちで、漆黒の皮膚と縮れ毛のメラネシア原住民の先頭に立って斧を振い、伐採した巨木をトロッコで海に落とし込む現場監督役を演じている姿は、何かタイムトンネルを抜けて20年昔に戻った感じ。日本軍の号令がどこかから聞こえてでも来そうな情景であった。主計将校として東部ニューギニアのジャングル体験をお持ちの前田副社長も、しきりに往時を偲びながらの現地視察になったようである。


予測を越える困難な居住性、木材搬出のコスト高などの困難に耐えながら、このプロジェクトはその後しばらく続けられたのち、ブラジルなどでのパルプ用材の植林に形を変えて、経験が活かされていると聞いている。当時の苦労を偲ぶ「ソロモン会」という、まるで戦友会のような集いが、すでに現役を引退されている方々が参加して開かれたという話を、大曾根(ホニアラ事務所長)氏の未亡人からうかがった。


「ソロモン、ニューギニアへの旅」という20分の短編2回シリーズで、私にとってのこの海外処女作品は、8月中旬、終戦にちなんだ番組として放映され、9月には社命による米国留学、これに続く長年の海外勤務というコースを踏み出すことになった。


大曾根所長にはその後一度、三井物産の本社でお目にかかったきり、ご無沙汰を続けているうち亡くなられてしまったが、生前、様々な動乱地域からのレポートをご覧になるたびに「ガダルカナルが振り出しだったばっかりに、いつも危ないところで苦労しているね」とコメントされていたそうである。そのお心づかいに心が温められる。ご冥福をお祈りしたい。


「軍国少年」としての日米戦争、新聞記事をむさぼり読み、敗戦の挫折感を大人たちと共有したのが、私たち昭和一桁世代の、一種の原形質になっているといえそうだが、これに加え、現役のジャーナリストとして私が向き合った世界は、絶え間のない地域紛争の時代だった。そうした意味で、「ガダルカナル」は、やはり私にとって抜き差しならない出発点であったのかも知れない。


◆◇ハートと財布・・・第三世界との対面◇◆


さてその社命による留学である。当時NHKでは、毎年、放送や技術部門の30歳前後の職員を5人ほど、外国の大学や放送局に1年間留学させる制度があった。記者は、特派員枠があるからとして対象外だったが、ソロモンへの取材提案が採択されながら取材は東京からという前記のような経過があったせいか、仙台局の佐川局長ら上司の方々が、私を慰めてくださるためでもあろう。地方局の推薦枠で、私の知らぬ間に手続きを進めていたことを帰国後知った。


形ばかりの選考テストを経て、ニューヨークのコロンビア大学に赴くことになった。スクール・オブ・ジャーナリズムという、1年で修士号がとれるコースもあったが、急なことで手続きも間に合わず、同大学が、大学院の準備過程として併設している英語のクラスに登録しながら、国際関係論など大学院の講義をつまみ食いで「盗聴」することにした。


到着が新学年の開始ぎりぎりだったため、NHKの同期留学生(技術系)のように学内の学生寮に入ることもできず、大学の紹介で、大学に近い、アイルランドから移住して久しいという女所帯の貧しいアパートの一間に州11ドルで下宿した。世帯主である60過ぎのおばさんとその妹という40代の姉妹。それぞれレストランのメイドや通勤の家政婦などをしながら、つつましく暮らしており、ほかにニューヨーク市の生活保護を受けているドイツ系の70過ぎのおばあさんがいた。


世帯主のおばさんは、アイルランド系のご他聞に漏れず民主党の熱心な支持者で、次の選挙にはあんた(つまり私)もぜひ民主党に投票してくれという。冗談じゃない。僕は日本人ですよ。選挙権などあるわけもないと答えると、ニコニコ笑いながら「そのうちアメリカ人になるだろう。その時でいいから」と、あきらめない。貧しいアジアの国から折角アメリカ東部の名門大学に勉強に来たというのに、帰化のチャンスを逃して帰国してしまうはずがない、と思い込んでいる。自分もアイルランドからの移住者である、このおばさんの善意あふれる押しつけがましさが面白かった。ベトナム戦争の失敗や赤字の累積という挫折をまだ知らなかった当時のアメリカ。1ドルが360円の時代であった。


本社から受け取る奨学金は、年間6000ドル。大学の授業料を払うと残りはかなりきつく、道路1本隔てたところまで拡張してきた、プエルトリコ人スラムの安食堂で夕食をとる日が多かった。鶏のスープからトサカが出てきたりした。キューバ人の常連客もいた。


アメリカで出稼ぎ中、カストロの革命が起き、アメリカとキューバの関係が悪化。CIAに支援された亡命者の侵攻作戦(ヒロン湾事件・失敗)やソ連ミサイルのキューバ持ち込みをめぐる「キューバ危機」などから間もない時期だっただけに、キューバとアメリカは、互いにほとんど「敵国」同士であった。


食堂のキューバ人たちも大のカストロびいきで、口を極めてアメリカ政府を罵倒する。しかし「それなら何故キューバに帰らないのか」との私の質問には肩をすくめて苦笑いするだけだった。ハートと財布は別という第三世界の現実。私が以後長年付き合うことになる皮肉な状況との初対面だった。



大学界隈での生活にようやくなじんだ11月22日、ケネディ大統領が暗殺された。午後の講義を終わって校庭に出ると、異様な緊張の中で、学生たちがあちこちに群がって議論している。「また南北戦争か!」と叫ぶ声も聞こえた。公民権運動に反発する南部反動勢力の仕業…というのがニュースを知った直後のニューヨークの学生たちの反応だった。


NHKのニューヨーク総局に駆け込み、現地ダラスに飛んだ特派員諸兄の穴埋めに米国メディアの報道をメモした。容疑者オズワルドが、連行されて移動中射殺される銃声を、ラジオの生中継で聞いた。


◆◇「蒸発」もくろむエジプト人学友◇◆


ラテンアメリカ、アラブ、東南アジアなどからの留学生とも親しくなり、留学から帰国の途中、このうちのエジプト人のアレキサンドリアにある実家を訪れて泊めてもらった。ナセル体制の厳しい統制下で郵便物も開封され検閲されるため、この友人の許婚者への手紙を託されたのが実家訪問の理由だった。エジプト政府の奨学金を受けて航空工学を勉強に来ていたから、エジプト当局は、軍事産業にとって前途有為の人材として期待していたらしいが、ナセル嫌いの彼は、どうやら許婚者を手元に呼び寄せ、学業を終えると同時に、「蒸発」してしまうことをもくろんでいたらしい(事実オーストラリアに移住したと聞く)。


その彼も、イスラエルには激しい敵意を抱いていた。パレスチナ問題について熱っぽくアラブ側の立場を私に訴え、私の別の友人であったユダヤ系アメリカ人との対話を、私の「調停工作」にもかかわらず拒み続けた。


そのユダヤ系アメリカ人の方は、公民権運動のかなり熱心なシンパだったが、次第にソ連の人権問題、端的にはユダヤ系市民の出国規制問題に関心の重点を移していた。そうした支援を背景にソ連圏からイスラエルに流入した新規移住者たちが、現在ではイスラエル極右勢力の母体になり、中東和平への障害になっているのは皮肉な現実だ。


1964年の7月、帰国の途中、私は2か月かけて東西ヨーロッパや中東を旅行した。エジプトの友人の実家を訪れた後、ルートの最終立ち寄り先はエルサレムだった。旧市街を含む同市の東半分が、まだイスラエルに占領されず、ヨルダン軍の支配下にあった時期である。僅か一昼夜の滞在であったが、「西岸占領地」が発生する前の姿を一瞥した体験は、その後中東と深く関わり合うことになった私にとっては貴重である。

アレキサンドリアもエルサレムも、その後の状況は大きく変わっているが。人々の騒がしさ。しつこさ、そして人懐っこさなど第一印象は今も変わっていない。


この年の夏、ニューヨークでは既にベトナムへの米軍介入に反対するデモが始まっていた。世界各地の反米デモのスローガン「ゴーホーム・ヤンキー」をもじった「カムホーム・ヤンキー」が、このデモのスローガンだった。軍事顧問団の増員やトンキン湾への第7艦隊の派遣など、当時の南ベトナム内戦へのアメリカの介入が次第にエスカレートしていた時期であり、テルアビブから羽田に向かう私の帰国便フランス航空機は、寄港地のサイゴン上空でしばらく着陸できずに,待機の旋回を続けた。解放戦線ゲリラを攻撃に向かう戦闘爆撃機のスクランブル(緊急発進)にかち合ってしまったからだ。ニアミスに近い至近距離を急上昇してゆくファントムの機影が窓外をかすめた。


既に米海軍と北ベトナム軍魚雷艇の間の小競り合い、いわゆるトンキン湾事件も起きており、翌65年には米海兵隊や陸軍など地上部隊が本格的に投入されて、冷戦下最大の戦争(ベトナム戦争)が、悲劇の幕を開ける。



同世代の仲間たちが次々にこの新たな戦場の取材に投入されてゆくのに後ろ髪を引かれる思いで私は南アメリカ(ブエノスアイレス)への赴任を命じられ、リオデジャネイロとあわせ6年間を過ごすことになる。激化するこの戦争も、イスラエル軍が圧勝して占領地を広げた第3次中東戦争も、南米のテレビで見ることになるが、米軍のベトナム撤退(1973年)を現場で見送るのは私の役回りになった。



南米への赴任を命じられたのは、ニューヨーク・プエルトリコ・スラムでの耳学問に多少の色を付けるつもりで大学で半年間、スペイン語の速成講座を採ったためのようだ、成人用の教科書だったため文例が面白かった。「ロス・ビエホス・キエレン・フネーブレス・ポルケ・エンクエントラン・アミーゴス」(老人は葬式が好きだ。何故ならば友達に会える)

言葉の味わい深さがしみじみ感じられる昨今である。

皆さんお体大切に。

(元NHK記者・解説委員 2013年11月記)


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(付記)南太平洋ココナツボートで始まった私の取材雑記。南米でのアルゼンチン海軍に同行した南極取材、「タンカー戦争」さなかの2度にわたるペルシャ湾での乗船取材など、海や船に絡む取材記を次回にまとめたい。

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