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公安担当記者の頃 ソ連スパイが〝わな〟にかかった(加藤 順一)2013年10月

警視庁の「警備・公安」担当記者にとって、スパイ事件ほど難しかった取材体験はない。スパイ事件は、公表された時には全てが終わっているからだ。


公安事件担当となったのは1969年。1月に東大安田講堂を機動隊が実力で解放、街頭では過激派学生の騒乱が続いていた頃である。当時警視庁公安部外事課は一課、二課に分かれ、一課はソ連・東欧、二課は中国、朝鮮をカバーしていた。一課長はキャリア官僚で、多くが海外勤務の経験があった。二課長はノンキャリだった。


ある日、薄暗い警視庁の廊下で「学生ばかり追い掛けていてよいのか」と、ノンキャリの中堅幹部がポツリと言った。まさかスパイなどは取材範囲にはないだろうとの思いが正直なところだった。ただ「学生ばかりじゃない」という一言が気になり、下町にある同警部の自宅へ何度も行った。もちろん沈黙。「何もない。帰ってくれ」と言うだけだった。


70年安保闘争も先が見えてきた暑い夏だった。今度は外事二課が「アマチュア無線の愛好者を洗っている」という情報が警察庁から入った。無駄を承知で秋葉原の電気街を探ってみた。「近頃、杉原商会で外国人の出入りが多い」という話があった。杉原商会は米軍の無線パーツを扱い、マニアが集まる店だった。


そこで、杉原商会の名前を当てると警部は驚き「どこで聞いた」と激しい反応を見せた。反応の激しさに、もしかして重大なスパイ事件に触れたのかもしれないと緊張した。やがて、警部は帰宅しない日が多くなった。数日後「府中で親類の不幸があってしばらく帰れない」という謎めいた「伝言」があった。「府中」「不幸」のキーワードで謎を解けというのか。まるでクイズだ。


◆「アキハバラ」を洗え


事件は思いがけない展開だった。秋葉原の電気街では、あらゆる電子部品が売られていた。警察無線の傍受装置すら買えた。米軍の払い下げ品を扱う、ある中古部品業者に接触してきたのは、ロシア人だったのだ。


大阪で行われていた万国博会場でも不思議な光景が目撃されていた。外事一課に情報が頻繁に入っていた。ソ連のパビリオンの裏で、ロシア人が洗濯機、掃除機、テレビ、ラジオなどの電子機器を買い込み、分解して、懸命に調査活動をしているというのだ。「産業スパイ」のような行動が「イリーガル」なものに発展するのではないか─警視庁も徹底的な尾行を行っていた。


その真っただ中に、何も知らない「記者」が現れたと思っていい。「麻雀屋にいる」と私をまき、捜査員たちは夕刻になると通常の帰宅を装い、港区内の小さなビルに集まっていた。


警視庁は不審な中古部品業者をついに拘束した。ロシア人から現金を渡される瞬間を目撃、追跡逮捕。家宅捜索を行い、高性能無線機、乱数表、換字表、タイムテーブル(写真=筆者提供)が押収された。逮捕容疑は「刑事特別法違反」だった。


中古部品業者に目を付けたのは、ソ連大使館付き武官ハビノフ陸軍中佐(ソ連陸軍参謀本部中央情報部=GRU)だった。中古部品業者は米軍横田基地に出入りして、米軍の払い下げ部品を秋葉原で売買していたのだ。


ハビノフ武官は日米合弁の航空機部品製造会社の技術顧問と称して、秋葉原の「杉原商会」に頻繁に出入りしていた。70年6月下旬、中古部品業者を郊外の喫茶店に誘い、当時の最新鋭戦闘機F4ファントムの「航空観測装置のテクニカルコード」の入手を依頼した。中古部品業者とハビノフ武官は29回会い、合計600万円の現金が業者に渡されていた。


◆暗号解読、小説もどきの諜報合戦


もう一人のロシア人が登場した。コードネーム「レオ」ことコノノフ空軍中佐だった。中古部品業者から、米軍の秘密文書が渡される手はずになっていた。警視庁はそれも目撃し、中古部品業者の逮捕に踏み切ったのだ。


諜報合戦は小説もどきだった。その頃、モスクワの日本大使館に仕掛けられていた盗聴装置発見のために、自衛隊の専門家数人が民間人を装ってソ連に入国した。絶対の秘密だったが、作業中に飲まされた紅茶に薬品が仕込まれて、数人が全身に痺れを感じる事件があったという。もうろうとする自衛隊員をいち早くパリに脱出させたという話が広まっていた。


警視庁にとって今回の事件は戦後初めて、自らの捜査で掘り当てたスパイだった。KGB(ソ連国家保安委員会)、GRUとの対決の様相だった。


中古部品業者が極秘裏に逮捕されたことは、コノノフ中佐は知らない。外事課はわなを仕掛けることに決した。


コノノフとエージェントはお互いの連絡をすべて暗号無線で行うこととしていた。IT時代の現代では想像もつかないが、暗号解読の計算、発信も手作業のスパイ活動だった。


定期的な連絡が途絶え、緊急の場合は「次の方法を取れ」とのことだった。「レオ」から連絡する場合は午後9時30分頃、電話のベルを1回鳴らし、すぐ切る方法を3回続ける。中古部品業者からは、火曜日か金曜日の午後11時にポケットベルを鳴らす。どちらかから、こうした連絡があった時には、その翌日午後8時にレストラン「ニューロード」(府中)に行く。もし「レオ」が行けず、代理人が行った場合の合言葉は「府中まで何キロありますか。」「25キロあります」だった。


外事一課長はじめ捜査員を悩ませたのはポケベルだった。中古部品業者の自供がウソで「緊急事態が起きた」という暗号だったとすれば、たった1回のポケベルで数カ月に及んだすべての捜査が闇の中に消える。戦後初めてといっていい警視庁独自のスパイ摘発で、ソ連側に警告を発する絶好の機会を失うこととなる。ポケベルを鳴らすべきか、「レオ」からの連絡を待つか。選択を迫られた。


◆約束反故で書いた苦い特ダネ


外事一課長は決心した。ポケベルを鳴らすことにした。息のつまる緊張感の中、ポケベルが鳴らされた。数時間後、突然、無線機が鳴った。電波はウラジオ方面からだった。ただちに暗号表で解読した。「7月29日午後8時、われわれはニューロードであなたをお待ちしています」


「ついに、わなにかかった!」


当日、ニューロードを、外事一課捜査員が幾重にも取り囲んだ。コノノフ中佐が1時間遅れで現れた。素早く駆け寄った捜査員が警視庁への同行を求めたが「外交官身分証明票」を見せ「外交官特権」を主張し、捜査員のカメラのフラッシュの中、姿を消した。


その翌日遅く、下町の警部宅を訪ねた。彼は珍しく少し酔っていた。「書かないと約束すれば言う」


コノノフ中佐は明朝、アエロフロート便で日本を脱出するだろうと予測されていたからだと思う。同時に「ある筋」から「日ソ関係の悪化を防ぐために公表をしない」という方針も決まっていたようだ。


その夜、警視庁の記者クラブに帰ったあと悩んだ。結局、これ以上、新聞が沈黙を守っても事態は変わらないと判断し、特ダネの魅力にも負けて、紙面化した。朝刊締め切り5分前の送稿で、1面5段。「米基地から機密文書入手・ソ連大使館員に流す」「出入り業者刑事特別法で逮捕」という、あまり扱いのよいスクープではなかった。


発表は一切なかった。事件を話してくれた警部とは以来、一言も語ることなく、数年前に故人となった。偶然が重なった後味の悪い取材だった。


かとう・じゅんいち

1938年生まれ 東京都出身 62年毎日新聞入社 社会部副部長 警視庁キャップ 学芸部長 編集局次長 中部本社編集局長など 94年退社

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