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富士山と重なる凛とした姿 最高裁判所事務総長・大谷直人さん(植松 恒裕)2013年8月

終戦直後、食糧統制に抗議して闇米を拒否し、栄養失調で早逝した判事。そんな古い話を持ち出すまでもなく、多くの国民にとって黒い法服を身に着けた裁判官は、法の番人としてストイックに生きる、そんなイメージの近寄り難い存在だ。


30年近く、新聞記者生活を送ってきた私にとっても、駆け出し記者当時の法廷取材以外にはほとんど接点がなかった。意識することもなく、遠い世界の住人のように感じていた。2年前、静岡地方裁判所長だった大谷直人最高裁判所事務総長に出会うまでは。



司法の場に市民感覚を取り入れ、国民との距離を縮めることが大きな目的の司法制度改革で、裁判員制度が導入されて1年余りが経過したころ、静岡市内で大谷さんと酒席をご一緒させていただく機会を得た。柔和な表情と語り口。和やかな雰囲気の中で時間がゆったりと流れる。酒席の名目は「裁判員裁判についての意見交換」だったと記憶している。


地元の名物を肴に酒が進むと、裁判員裁判の話もそこそこに、政治や地域経済、趣味と、話は止めどなく盛り上がった。遠慮を忘れて思いの丈をぶつけても、広い度量で受け止めてくれた。率直な意見も聞くことができた。


「居酒屋やカラオケになんか行かない」とまでは思っていなかったが、それに近いイメージを抱いていた。それだけに、ざっくばらんな大谷さんの人柄は新鮮な驚きだった。いっぺんでファンになった。法服の「黒」には「どんな色にも染まらない」「どんな意見や圧力にも左右されない」という意味がある。ただ、地裁所長の職にある間は法廷に立つ機会はない。そんな気楽さもあり、そこから交流が始まった。



裁判員制度導入に合わせて建て直した地裁庁舎に招待され、裁判員関連施設も案内してもらった。そこに足を踏み入れ、係の職員から説明を受けて初めて、裁判員を包む張り詰めた空気を感じた。制度を分かったつもりになっていた自分の浅はかさにも気付かされた。


弊社の見学にも、職場のお仲間と足を運んでくれた。昼食会や夜の酒席を通して、さまざまな話をさせていただき、この地域の「今」「これから」について、仕事を離れた貴重なご意見をいただけた。



その大谷さんが静岡を離れて1年余り。「静岡は楽しかった」「富士山がない生活がつまらなくて、毎日パソコンでライブビューを使って見ている」とおっしゃっていただき、自分のことのように喜んでいる。


その富士山は6月、世界文化遺産に登録された。遺産の名称は「富士山─信仰の対象と芸術の源泉」。日本の宝は世界の宝になった。凜とした大谷さんの姿には、この山と重なるところがある。人間性豊かな紳士、包容力がある大谷さんが力を入れる裁判員制度の定着と進化を期待したい。


もう一つ。「憲法の番人」と呼ばれる最高裁の要人は、昨今かまびすしい憲法改正論議をどう受け止めているのだろうか。富士を仰ぎ、杯を傾けながら聞いてみたい。


うえまつ・つねひろ▼静岡新聞編集局次長兼ニュースセンター長

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