取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
ベトナム断想Ⅱ ベトナムの司馬さん(友田 錫)2013年5月
新聞記者になってよかったと思うことの一つは、仕事柄、人との出会いに恵まれていたことだ。中でも、わたしの記者生活にとって、作家の司馬遼太郎さんと出会ったことは得がたい経験だった。
◆司馬さんとの出会い◆
ちょうど40年が過ぎた。1973年4月、当時勤めていた産経新聞が、司馬さんにベトナム紀行を書いてもらうことになった(後に中公文庫『人間の集団について―ベトナムから考える』所収)。わたしは、ベトナムに駐在したことがあるというので、本社から、案内役として司馬さんとの同行を命じられた。4月1日からまる2週間、司馬さん、夫人のみどりさんと、まだ戦火が熄んでいない南ベトナムで、文字どおり朝から晩まで行をともにした。
朝、街に出て人に会い、話を聞き、チャーターした車で、ときにはシクロ(人力三輪車)に乗って事跡を訪ね、合間に食事をして司馬さんの感想談に耳を傾ける。博識を翼に、天空を翔びまわるようなその連想の数々。知的刺激に満ちていた。そのせいだろう、日本に帰ってからほぼ一カ月というもの、脳髄のしびれが取れなかった。
◆記者は二つの眼をもつべし◆
二つのことばが耳に焼き付いている。
「新聞記者は火星人の眼と地下(じげ)の人の眼との二つを持つべし」
帰国途中の機中で、司馬さんはわたしに言った。
「記者はときどき火星人になる必要がある。30秒でいいから、自分を地球から切り離してモノを見るくせをつけるとよい。そうすれば、大きな海の広がりや大河のうねり、巨大な山脈の連なるさまがくっきりと眼に映る。同時に、地下(じげ)の人の眼も大事だ。ひたむきに、その日、その日の生活に追われている庶民の感覚を忘れてはいけない」
司馬さんはかつて産経新聞大阪本社で文化部の記者をされていた。わたしという同じ新聞社の後輩に、司馬さんなりの「記者の心得」を伝えておきたかったのだろう。対象を大局的に、俯瞰して見ること。同時に、上から目線ではない庶民の目線を忘れないこと。以後わたしは記者であったときも、研究者になってからも、二つの眼を持つべしという「心得」を噛みしめてきた。
◆ダイヤモンドのような記憶◆
もう一つのことば。
「人にはだれにも一生に三度は忘れられない体験がある。他人にはどんなにつまらなく見えても、その人にとってはダイヤモンドのように大切な記憶がある。」
ある人をわかろうとするとき、そこに眼を向けることが大事だと、司馬さんは熱っぽく語った。きっかけは、旧日本兵で、ある進出商社の現地社員をしていた青木茂さん(当時52歳)と会ったことだった。
かつて仏領インドシナ(ラオス、ベトナム、カンボジア)に進駐した日本兵の中には、日本が降伏したあとも現地に残り、ホーチミン率いる共産ゲリラ、ベトミンに誘われ、あるいはつかまって、フランスに対する独立戦争を一緒に戦ったものがかなりいた。青木さんもそのひとりだった。
ベトミンはだれひとり本格的な戦闘訓練を受けたことがなく、もちろん兵器も仏軍よりはるかに劣っていた。インドシナ半島の尾根、安南山脈を覆うジャングルをひたすら駆けめぐって仏軍部隊を奇襲する日々。8年後、ジュネーブ会議で戦争が終わったとき、数百人いた青木さんら旧日本兵で生き残っていたのは、わずか50人余りだった。
もし太平洋戦争史の最終章に”補遺”を書くとすれば、仏印の地に残った旧日本兵たちのこの劇的な8年は、まさにその一節となり得るものだろう。
青木さんは、二十歳代のほとんどを想像を絶する困難の中で過ごした。しかしその体験を語るとき、悲壮な表情をかけらほども見せなかった。司馬さんは、その淡々とした語り方の向こう側に、青木さんが8年の辛苦の歳月の記憶の中に塗りこめた濃密な思いを見てとった。司馬さんとしては、「ダイヤモンドのような」という形容で、この思いの濃さを言いあらわしたかったのではないか。
◆やさしさを大事にする司馬さん◆
南ベトナムでの日々は、また、司馬さんの人間的なやさしさを発見する機会でもあった。
あるとき、司馬さんはチャーターした車の運転手、タム君(当時33歳)に「戦争が終わったらどうするの」と尋ねた。「(メコン・デルタの)故郷の村に帰って鳥を追って暮らすんだ」。すかさずタム君は答えた。彼が発散するこの「自然人」の体臭を、司馬さんはこよなく愛した。帰国後スタートした連載で、司馬さんはこのタム君(文中では、ツン君としてある)のことを、めずらしくこんな大仰な表現で書いた。
「滞在中、親しくなり、最後には離れがたい友情をおぼえてしまった。」
タム君はチャーター用の車の運転手として、長い間、世界中から集まった外国の報道陣を相手に働いてきた。小柄でやせっぽち、しかも俊敏で冒険好き。いなせなベトナム男子だった。わたしもパリ和平協定で停戦が成った直後、このタム君の手引きでメコン・デルタのとある解放村に入り、取材したことがある。
司馬さん一行がサイゴンを離れるという日だった。「近くアメリカの通信社の仕事で戦場に行く」とタム君が告げた。いくら敏捷な彼といえども、戦場で、しかもアメリカ人たちの乗る乗用車を運転していれば、銃撃はもちろん、共産ゲリラの愛用する小型バズーカ砲、B40の絶好の標的にもなりかねない。
心配した司馬さんは、タム君に戦場行きをやめさせようと一計を案じた。数日前、市内のはずれにある古い廟を訪ねたとき、タム君はおみくじを引いた。漢字で書いてある卦には凶とあった。タム君は漢字が読めない。彼が不安がるといけないと思った司馬さんは、
凶とも吉ともつかないあいまいな説明でごまかした。
このおみくじの"真相”を知れば戦場行きをあきらめるのではないか。そう思いついた司馬さんは、「実は凶という卦が出たのだよ」と、"真相”を打ち明けた。はたしてタム君の顔色が変わった。
「あの顔色なら戦場には行かないよ」。司馬さんは満足気にわたしたちにささやいた。
◆心の在りようへの美意識◆
このように、青木さんやタム君について語るときには温かい眼差しを見せる司馬さんだったが、「イソップの蛙のように」自己を肥大化してみせる人、小賢しい人、心の機微に鈍感な人などを話題にのせるときには、辛らつなことばも飛び出した。司馬さんは、人間に対して、やさしさだけではなく、厳しさも持っていた。
このやさしさと厳しさを分けているのは何なのだろう。おそらく司馬さんは、人の心の在りように対して、人一倍鋭い美意識を持っていたのではないか。心ばえのさわやかさには敏感に反応する一方で、醜さには嫌悪の気持ちを隠せなかった。
司馬さんはベトナム紀行のあとがきで「私の半生のなかで、このベトナムにおける短い期間ほど楽しい時期はなかったように思える」と記した。この文章のひそみにならえば、わたしにとって、ベトナムで司馬さんと過ごした2週間ほど、多くを学び、多くに思いをめぐらせた時期はなかった。