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声一本で勝負した歌手村田英雄さん 大御所の「お母さん」とともに(安武 秀明)2012年3月

九州が生んだ演歌の大御所、村田英雄さんを初めて生で見たのは、確か北九州市の八幡市民会館だった。小学生の頃、両親といっしょに歌謡ショーに行った。園まり、西郷輝彦ら多くの人気歌手が出る中で、戦後初のミリオンセラー「王将」を歌った。世代を超えた流行歌がまだ健在だった時代。「吹けば飛ぶような将棋の駒に─」と口ずさんだ覚えがある。

 十数年前の東京支社勤務の際、西日本新聞朝刊の聞き書き連載で村田さんを取材することになった。地元出身の政治家やプロ野球OBなど何人かいた聞き書き候補の中で、村田さんに白羽の矢を立てたのは、そんな子どもの頃の思い出があったからだ。
 

 当時、村田さん(70歳)は大阪住まい。週に1度、大阪市内のホテルに部屋をとり、話を聞いた。最初に会った時のことは忘れない。
 

 「村田です。どうぞよろしく」。つえをついて立ち上がりあいさつされた。頭をそり作務衣姿。派手な着流しのステージ衣装が頭にあったせいもあり、随分と年をとられたなあというのが第一印象だった。だが、インタビューを始めてびっくりした。声がよく通るし、実に野太い。その迫力に大げさでなく圧倒された。幼いころから喉を鍛え、浪曲師として活躍した。糖尿病の悪化で足を切断手術するなど入院生活をしても、声の鍛錬だけは欠かさなかったに違いない。声一本で勝負してきた男のプロ魂を見た思いがした。
 

 取材では、波瀾万丈を絵に描いたような、自らの半生をまさに浪曲のように語ってくれた。話の面白さに時間を忘れてしまうこともしばしばだった。
 

 聞き書きは、「男の応援歌」というタイトルで、1999年9月6日から12月11日まで計81回にわたって連載した。昭和の時代、高度成長期を生き抜いてきた多くの読者から好評をいただいた。
 

 ところで、当時の聞き書きには書かなかったことがある。取材では事務所のマネジャーのほかに、実はもう一人付き添いがいた。村田さんが「お母さん」と呼ぶ女性だった。村田さんは62歳の時に糟糠の妻ユイ子さんに先立たれた。心労が重なったこともあって、村田さんは心臓発作で入院するなど、体調を崩した。そんな時に支えてくれたのが、大阪のお母さん、須真子さんだった。
 

 歌謡界では「御大」と呼ばれ別格扱いだった村田さんだが、取材の後いっしょに食事をする時などは、「ちゃんと野菜も食べなさい」と子どものようにお母さんから叱られていた。「どうもうるさくてなあ。酒も飲ませてくれねえ」と愚痴を聞かされたこともあった。ちょっといたずらっぽい笑顔。武骨ばかりではない、愛嬌のあるところが村田さんの人間的魅力でもあった。
 

 半ば公然の仲だった須真子さんとは、その後、正式に籍を入れて再婚した。「ムッチー、男のケジメ」「計140歳の高齢婚」などと見出しが躍り、スポーツ紙やワイドショーで大いに話題になった。
 

 2002年6月、村田さんは73歳で亡くなった。築地本願寺で行われた音楽葬には福岡から駆け付け、全盛期の男っぷりのいい遺影に手を合わせた。参列者全員で合唱したのは、やはり「王将」。時代を彩った大スター、流行歌の力をあらためて思った。

やすたけ・ひであき▼西日本新聞東京支社次長・編集長

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