ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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日中国交正常化40年  「田中訪中」-歴史の転機を伝える 放送人の一人として、まことに個人的な<40年目の繰り言>(志甫 溥)2012年12月

一点のかげりもない蒼天のもと、田中首相一行をのせた日航特別機は、北京空港におりたった。「蒼天」は字引では、<あおぞら>もあるが、春の空とか天帝の意もあるらしい。ただ、そのときの空には、この言葉がよく似合った。ぼくは、すでに国交正常化交渉取材のため北京にいた日本人記者団80人のひとり。遠方のきめられた位置で見守る私たちからは、特別機が解放軍儀仗隊の長い列のむこう側をゆったりとおおいかぶさるように進み、停止するのが見てとれた。


出迎えた周恩来首相と田中角栄首相との初の出会いは、よく見えなかったが、日本でテレビを見ていた人たちは、その瞬間の両首脳の初の堅い握手の鮮明な画面をそれぞれの感慨をもって見ることができたはずだ。1972年9月25日昼前、北京。


両首脳は、儀仗隊閲兵をまじえて、空港ビルまで歩いた。40年たった今、北京空港は巨大化し、飛行機の乗降地点から通関のところまで、電車でかなりの距離を行き来する必要がある。


◇◆ 画期的だった「北京プール」 NHKと民放一体でナマ中継 ◇◆


1972年7月7日の田中政権の発足以来高まった日中国交正常化への動きの中で、私たち放送人は、同年2月の米ニクソン大統領訪中がナマ中継で本国に伝えられたように、田中訪中で期待される歴史の転機の諸相を北京から衛星中継(当時は宇宙中継といわれていた)によって迅速、詳細に日本に伝えたいと願い、その実現にむけて放送、通信など関係各界の間、そして中国側との協議が急速・緊密に進行した。ぼくが、かかわったのは、動きが持ち上がってすぐの暮夜、新政権首脳のところに行って、正常化交渉を中継放送する意味合いと、まずは(「もとよりご存じとは思いますが」)電波は国家の主権のひとつで、実現には政府間の折衝が必要、ということを説明した程度だった。


7月下旬には北京に衛星用地上局をおく見通しがたった。


そして、中国側のテレビ中継一本化の要望により、8月14日にはNHKと当時4社の在京民放キー局がひとつになって総理訪中放送共同製作機構すなわち「北京プール」を組織することが合意された。それはプール5社が分担して放送機材と要員を中国に送り、単一の放送局機能で5社個別の放送計画に対応するという、いわゆる代表中継と全く異なる初のシステムを構築するものだった。それぞれ違う局のマークをつけた3台のテレビ中継車をはじめ、スタジオ、VTR、送出、フィルム現像・編集、機材保守など取材・中継に必要な機能が8月27日から、あいついで船積みされ、総勢70人の要員の第一陣10人が9月1日に広州経由で北京に向かい3日に最初に天津港に到着した機材のひきとりにあたったのをはじめ、北京空港近くに用意された放送センターと長安街のプレスセンター(「民族文化宮」に設営された)を中心に膨大な技術作業が進められた。それはまだ日程が確定していなかった首脳会談にむけての時間との闘いだった。


◇◆ 中国側が各社毎にブースと専用回線を用意 ◇◆


田中訪中が正式に発表されたのが、出発4日前の9月21日。集中的な作業の結果、23日には、日本の機材とスタッフによる北京からの映像第1報が星にのって日本にとどいた。最初のテレビ中継画面は故宮太和殿のそばにある鶴と亀の大きな青銅像を中心とするものだったのではなかったか。早朝の北京はもう肌寒く、日本の中継要員は冬支度だった。


NHKと民放が一体となって動いた「北京プール」は、日本のテレビ放送の歴史の中できわめて画期的なものだった。そして、その空前のプロジェクトの順調な完遂は中国側のまことに行き届いた異例の努力・協力に支えられていた。北京プールのための諸施設の用意と運営はもとより、中国では決して放送されることがなかった画像や音声を日本にむけて送出するためのサポートは、並大抵のものではなかったろう。


たとえば、そのころの海外取材では、国によっては国際電話を申し込んでもいつかかるかわからないことが多かったのだが、日本取材陣のための北京プレス・センターには、各局や新聞・通信社のためのPTS(専用音声回線)のブースが各社別に作られていて、その箱に入って受話器を取り上げると本社の担当の声が直ちかえってくるという、ナマ中継を現実のものにしたとともに、たえず本社との打ち合わせが可能という当時としては夢のような装置があった。その回線で送る音声は、放送でそのままボイス・リポートができる高音質のものだった。北京プールスタッフは、仕事に関係する中国側服務員の丁寧で迅速な対応はもとより、センター内に設けられた軽食堂で、日本そばなどが用意されるといった温かい接遇を忘れない。


◆◇ 総勢80人、大同行取材団が北京入り ◆◇


日本の正常化交渉取材団全80人。全国メディアは1社カメラマン含めて5人で、ブロック紙、地方紙、ラジオ局、ローカル局、たとえば首相出身地の新潟日報や新潟放送は、それぞれ1人から5人、[この人数の調整は難作業だった])という空前の取材陣は、25日の田中首相・大平外相・二階堂官房長官らをのせた特別機に同乗した15人を除いて、23日に北京入りして、若干の取材とプールシステムを使った北京の映像の伝送を行っていた。


ぼくは、ある時から一度パンダをみたい、と思っていたので、中国側が用意してくれた北京動物園参観に参加して、ひたすら笹を食べたりしているパンダをみていた。嬉しかった。同行したK君が上等なカメラをもっていて、たくさんとったパンダ写真で、帰国後あちこちスーパーのような店でパンダ展をやった。見学の最後に動物園長さんと懇談があったが、そのとき、こっそり日本にパンダが行くかと尋ねなかったことはぼくがおかしたたくさんのミスのひとつ、と後日「パンダを日本に」という発表のとき大いに悔んだ。もとより聞いても答えは得られなかっただろうが、後日到着して大人気だったカンカン・ランランをぼくは見にいかずじまいだった(田中首相一行は、中国にオオヤマザクラ1000本とニホンカラマツ1000本を贈ったという発表があったが、いまどうなっているか、ぼくは聞いたことがない)。また、部屋に毛沢東主席の写真がかざられた人民公社の一戸で、北京ダック(文革中でもあったんだ)の強制的飼育作業(クチバシを強引にあけて喉に餌をつっこむ)の様子を見たし、大学にいって女子学生のインタビューをラジオ放送した。


日本での報道は、田中・周首脳会談、大平・姫外相会談で正常化交渉がはじまると、ほぼそれ一色になったが、同行記者団も北京プールスタッフもニュース原稿や放送素材送りに追われた。それに両首脳主催晩餐会への出席取材、八達嶺、故宮博物院(ぼくはこの明清時代の宮廷、即ち紫禁城の屋根の色合いと赤い壁面に魅せられて北京に行くたびに訪れた。人民大会堂の横にできたフランス人の設計になるというオペラハウスなどオリンピック前に首都の中枢近くにたてられた新しい建物は嫌いだ、と中国の人達に公言してみなさんを戸惑わせた)、明の十三陵など各所の視察で、田中首相らがオープンに近い場所に現れる機会や、大平外相らの革命的現代バレエ「紅色娘子軍」の観賞などに同行、などの直接の業務がメジロ押しにあって、たとえば北京の街並みをゆっくり散策するようなことはまず出来なかった。ところが、東京の社の担当者は、必ずしも交渉に関係のない各所からの中継をも始終見守っているので、自然に北京の地理に詳しくなってしまい、「その建物はどこどこの角をまがったところにあるよ」などと教えてくれることもあって、北京のプレスセンターでは「自分は一体どこにいるんだろう」と怪訝な気分になることもあった。


◇◆ 周首相が日本製カメラに「アメリカより小さいね」 ◇◆


いずれにしても、東京の国会内などで、当時の民間放送の常駐クラブ員は、大新聞やNHKにくらべてまことに少数だったのはやむをえなかったとしても、日々兵隊が少ないことに(同時に各党の見解を聞く必要があったときなど)困っていたものとして、この取材団は原則同数であったことは、多少ねじくれた心情のあらわれがあったとしても愉快だった。ただし、同数で、大新聞各社と同じような質と量の情報を入手できたわけではなかったように思われ、これは同等の力量がなかったためだろうか、とぼくのたくさんある「悔い」の大きなひとつになる。


プールには2台の「可搬型中継カメラ」(つまりハンディカメラのはしり)があって、25日の田中首相到着後、その2台は、両首脳が向かった迎賓館でまちうけていたが、周首相が、「そのカメラはこの前のアメリカ(ニクソン訪中)のよりずっと小さくていいね」と言ったのを、社と企業の技術陣が努力して完成したばかりの日本製小型テレビカメラをかついでいたTBSの技術者はうれしく聞いた。その、まだ日本で唯一の小型カメラは万里の長城などでも活躍した。最初は小型でもカメラマンは背中にかなりの付随機器をかついでいなくてはならなかったが、その後みるみるうちにそうした機材が進歩していくのは、放送がそれをつぎつぎと要求したためで、近来のスマホなどの極めてスピーディな進展と同様であった(これはカメラのことだけではなくて、ちなみに首相官邸担当から社に「あがって」デスク業についたぼくは、しばらく前に報道番組のADをやっていたころの牧歌的な放送様式とあまりに違う日常についていけなかった)。


交渉の経緯などは、その都度プレスセンターで行われた二階堂官房長官のブリーフィングが(「極めて率直な意見交換が行われた」など)唯一の公式なものだった。ふだんなら、その「率直」の裏付け取材をして、これは本当にケンカだったという意味がどうかたしかめて、報道原稿になるのだが、それは困難だった。田中首相の視察のおりには、辛うじて首相に近づくことができたが、直接のやりとりは極めてかぎられていた。とにかくそれら多勢の記者らがとりかこめる場所以外にも、限られた通信社記者2、3名が制限されてはいたが田中首相らにちかづける「近距離取材」と、われわれ近くに寄れない「遠距離取材」(なにも見えないに等しい)の記者団にわかれて、ルールは厳格だった。


この交渉取材には、中国全土から日本語の堪能な人が集まり、通訳として一社2、3人が固定でついてくれて、言葉のことだけではなくたえずなんでも便宜をはかってくれた。日本人記者たちの性急で多様な要求に戸惑いながらできるだけこたえてくれたことにあらためて感謝したい。ぼくの社には、長春からの落ち着いた女先生と天津で対外貿易に携わる青年の2人がとても行き届いた仕事をしてくれたが、どうも通訳陣には、取材ルールをふみこえようとしている日本人記者をさりげなく押しやって遠ざけるというチェック任務もあったらしい。緑色に「記者」と記されたバッジをつけた日本からの取材者たちも抵抗はしなかった。


◇◆ 晩さん会メニューをいち早く入手 ◇◆


ぼくの社は同行記者団に当時最高のチームを配していたが、残念ながら、ぼくは、その取材グループ責任者として、ついに、いちはやく独自の報道ができるような情報・素材を入手できなかったことや、経過的に放送原稿や画面リポートでいくつかの過誤をおかしたことなどにつき、40年にわたって忸怩たる思いがわだかまっているといわざるを得ない。公式ブリーフィングの内容をもとに、取材グループはニュース原稿を送るまでに、その時の状況判断と先の見通しを中心に、プレスセンターや宿舎の民族飯店の一室で検討と議論の時間をはてしなく費やすのが常で、時にはニュースの時間までに結論を得ないままの時もあった。


冗談めくが、ぼくが唯一事前に入手できた「素材」は、交渉開始前夜25日夜の周首相主催招宴のごちそうのメニューで、「日中首脳一堂に~人民大会堂より中継~」と題して、晩餐会の衛星ナマ中継をはさみながら、宇都宮徳馬氏、田川誠一氏に田中真紀子氏らを加えたゲストに放送した、翌日からはじまる交渉の前途を占う特別番組に使われた。晩餐会には、われわれ取材団も招かれて中国の各界の代表的な人々と食事を楽しんだのだが、ただちに、田中首相の答礼スピーチの「迷惑をかけた」発言が中国側を強く刺激し、翌日からの交渉が厳しい局面を迎えたことを知る。


このたび、旧記者団の一部有志のグループが訪中した際、ぼくは40年目ではじめて、晩餐会の会場だった人民大会堂の広大な宴会庁に入った。両国首脳が重要な内容を含むスピーチや、乾杯の発声をした舞台の上から(中国の宴会では、カンパイ、もしくはカンペイの音頭とともに杯をのみほし、全部飲んだ証拠にグラスの底を同席者にみせることになっている、と教えられていたが、実際には隣にすわった中国のベテランジャーナリストが、そんな必要はないですよと笑ってくれた)ながめて、それぞれ、自分はあの辺の席だった、とか著名な中国のスポーツマンと同席したとか思い出していた。もとより、はるかかなたのメインテーブルを囲んでいたのがどういう顔触れかも直接はわからず、そばに近寄ることは禁じられていたのだが、晩餐会特別番組を見ていた日本の視聴者は両首脳の表情の映像に、まさに近距離で接することができただろう。


◇◆ 毛主席が「ケンカはすみましたか?」 ◆◇


田中・周首相を中心とする首脳会談、大平・姫両外相らの外相交渉が断続的に続けられたが、当初から交渉が難航している様子がほの見える。二階堂官房長官の公式会見の「広範な具体的問題につき、精力的で熱心に意見交換が行われた」という表現をもとに判断でしかないのだが。(その間の日本代表団の苦悩などは、後日多くつたえられた)


そして9月27日よる、夕食中の日本代表団に連絡が入って、田中首相らは中南海に赴き、毛沢東主席との1時間にわたる突然の会談にのぞんだ。その会見が行われることを知らされた記者団は、いくつかの重大な問題を双方が乗り越えて、交渉がまとまった、と感じた。この会見は中南海の自室で、日本側を迎えた毛主席の「ケンカはすみましたか、ケンカをしてはじめて仲がよくなるのです」ではじまり、「迷惑発言」について「わたしはかまわなかったのだが、この人達がおこった」と女性通訳をさしたことや、マオタイ酒のアルコール度数の話題などもあり、毛主席の縦横な話が続いたということだったが、最後に「中国は古いものが多すぎて大変。古いものにしめつけられているのは良くないこともある」とのべながら、机上から六巻の『楚辞集中』という古い書籍をとりあげ、田中首相にわたしたという。(その古書は田中氏故郷にある田中角栄記念館にガラスばりの箱に入れて安置されている。読んだ人がいたかどうかは知らない)


この会談の場面に北京プールは近づけず、画像が中国側から提供されてただちにプールに、そして東京にとどけられて翌朝のニュースで放送された。中国の人民日報は一面に毛沢東・田中会談の大きな写真を掲載した。日中国交正常化交渉はまとまった。


翌28日、4回目の首脳会談で、交渉の正式な合意がなされ、29日に日中国交正常化共同声明の調印式が行われることが決まった。


◇◆ いよいよ共同声明調印へ ◇◆


その日、北京プールにとって、思わぬ難問が発生した。29日調印式の直後に予定されていた日本の大平外相の記者会見を、同じ人民大会堂で行ったらどうか、という「周首相の意向」が伝えられた。人民大会堂には、大勢の同行記者団が調印の瞬間を見るために集まるはずであり、その「意向」は周首相の好意に基づくものと思われた。まことにすばらしい「好意のあらわれ」だった。しかし、それは北京プールにとっては、致命的な事態となる。(つまり、調印式後の日本政府の公式会見が、人民大会堂から行われれば、テレビ・ラジオの同時ナマ中継は不可能となる。中国側の最大限の努力で組み上げられた映像・音声の伝送は、プレスセンターを経由する必要があり、あわただしく行われた専門技術者の検討の結論は、半日で、人民大会堂―プレスセンターの回線をあらたに構成することは不可能というものだった) 大平会見では、日台関係や日華平和条約に関する日本の態度が明確にされることになっていて、リアルタイムで世界に発信されるべき内容だった。


ぼくはNHKのO氏と田中首相主催晩餐会(答礼宴)が行われる人民大会堂にいそいで、すでに会場に集まっている日本代表団、とりわけ外務省のスタッフひとりひとりに、結果的に大平会見の同時中継ができなくなることを説明し、周首相の「好意」をつつしんで謝絶するという難事を、ひたすら要請した。そのうち宴会庁の入り口にざわめきがおこり、周首相をはじめとする中国側要人が会場に入ってきた。ぼくはまだ、日本側要人全部に「要請」を終えていなかったが、やむをえない、また中国側要人が列を作って出迎える日本側と挨拶をかわしているさなかに、会場内のテーブルにこっそり急ぐわけにもいかない。ぼくらは、賓客を出迎える列の最後に並ぶことになってしまった。


ぼくの目を見ながら握手の手をのばす周恩来首相の凛と勁い、しかも温かなまなざしとやわらかな手のふれを、ぼくは忘れない。1972年9月28日夕景。


9月29日、日中国交正常化の共同声明が人民大会堂で田中・周両首相によって調印され、日中間の国交が樹立された。共同声明の合意案文は、事前に配布されていたので、人民大会堂で調印が行われたことが確認できたら日本で放送中の特別番組に「箱」から送られる音声で歴史的な声明の内容を報告することができることになっていた。ここでも、調印が無事終了したとの確認が、調印式場から直接プレスセンターに伝えられることはなかった。調印式場の衛星中継を放送していた東京の局からのPTSの「箱」への連絡が最速の手段だった。調印は予定時間を少し遅れたので「箱」の中で待機していたぼくは緊張しながら東京からの連絡を待ち続けていた。ぼくが調印式の現場、東大庁を見たのは何十年あとだったか。


ぼくたちは国交のない国に入国して、国交ができた国の上海空港(来たときと違って華やかな歓送の少女たちで満ちあふれていた)から出国した。まだ「四人組」がさかんだったころで、上海を根城とする市革命委員会張春橋主任が田中首相とならんで搭乗機にむかう一団のすぐ横をぼくはあるいていた。タラップの下で、田中首相と周首相の別れをそばで見る。国交正常化を祝う大群衆の花とおどりと旗のなかで、ぼくは、「子々孫々までの友好を」という周首相のことばをとらえただけだった。9月30日午前10時42分離陸。


「北京プール」は成功した。繰り返しになるが、それはひとえにひとつになった日本の放送界を中国側が万全にバックアップしたことによる。日本の放送はあらたな次元に進んだ。それから40年、ぼくの社の同行取材チーム、プールのスタッフは、中国との友好の気持ちをもち続けていると思う。この北京プール衛星中継は、日本のテレビにとってまことに画期的なことだった。テレビ開局から間もなく会社に入り、もうそこを離れて長いぼくにとっては、皇太子ご成婚、東京オリンピック、カラー化、そして衛星放送などテレビにとって時代を進めるときに遭遇できた幸運を思う。ただぼくは、10余年の政治関係取材記者を通じて、いい取材記者にはなれず、まして「ジャーナリスト」と自身を銘打つ見識や視野の持ち主にもなれなかった。それは致し方のないことだったのだが。


◇◆ 40年の歴史をかみしめて 老朋友記者たちの旅 ◇◆



国交正常化から40年、同行取材陣のうちなんとなく集まった各社1人の有志でできたグループは20年目から今回で(30年35年目と)4回目の訪中をした。中国外交部新聞司、今回は中日友好協会が小さな旅行の世話をしてくれた。経費は「一切自理」つまり中国側の招宴などを除いてマイクロバス費用などもふくめて自前であることがグループ訪中をみとめる公式文書に明記されたが、若干の地方旅行の時など、いちいちホテルの支払いを現金で行った。日本円でもいい、となるとお金集めが結構ややこしかった。そして他界したメンバーも出て、数はへっていき、「多分これで最後だろう」といいあった「正常化40年記念老記者団」(かつて老記者団と命名してくれた中国大使館の担当官は「老人という意味ではありません、老朋友の老です」としきりに弁解したが、もちろんその趣旨を承知していたぼくらはいまや間違いなくみな老人といえる)が2012年の夏のはじめ、40年目にたどった幸せなセンチメンタル・ジャーニーから戻った後、日中間はかつてない事態に陥り、悲しい緊張が続いている。40年は、国家にとってそんなに短い期間ではない。


長安街は自転車の大群はなく、おそるべき車の渋滞の帯となったし、最初ビルは多分竹製の足場で建築されていたが、超高層ビルの林立はおそろしいくらいだ。


当初毛沢東主義や共産党を賛美していた赤字に白いスローガンが北京のいたるところに掲げてあったが、いつの間にかその赤い横幕がみあたらなくなっていた。今年はまったく違うスローガンらしき赤い横幕を見た。白く記された「愛国 創新 包容 厚徳」の文字は、北京市民から公募して決めた「北京魂」だという説明を受けた。四つの言葉から暖かな呼びかけが感じられた。2012年7月はじめ。


◇◆ 「小異を残して大同を求める」 ◇◆


ぼくは周恩来首相が交渉開始前の歓迎宴のあいさつで『われわれ双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めることによって、中日国交正常化は必ず実現できるものと確信している』とのべたこと、また共同声明に記された『両国のいずれも、アジア、太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、覇権を確立しようとする他のいかなる国、国の集団による試みに反対する』と明記された両国首脳の強い意志の結実を思い起こす。「友好」ということばは使い古されたようでいて、発するたびに、40年前の両首脳の決断と叡知に裏打ちされたものとして、どのような困難・危機をも乗り越えて友好関係を深化させるあらたな「両国国民の意思をそなえた将来にむけてのことば」とぼくは信じる。


(2012年11月記 東京放送ホールディングス社長室顧問)



ずらりと並んだ解放軍儀仗隊の向こうに日航特別機が着陸
(北京空港 1972年9月25日)

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