ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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安倍晋太郎さん(森本 和憲)2012年9月

運命受け入れる潔さ 人事はすべて“栄転”だ

安倍さんと言っても、山口県が悲願とした8人目の総理大臣の椅子を見事に射止めた晋三さんではなく、ご尊父の晋太郎さんである。


今から四半世紀を遡る1987(昭和62)年秋、戦後4番目の長期政権だった中曽根政権が終ろうとしていた。その年の夏から“安倍番”となった私は、渋谷区富ヶ谷にあった安倍邸に早朝から駆け付け、一日中、付かず離れずの距離をとりながら後を追い、深夜の帰宅を確認し自宅に戻るのが日課だった。


当時、安倍さんは自民党三役の一角を占める総務会長、外相を連続4期務めた実績を背景に、得意の外交分野で「創造的外交」を掲げて、ポスト中曽根の政権争いに乗り出していた。“遂鹿の日”が続く中、直接の担当としての取材経験も浅い記者への対応は、後から思えば、まとわりつくハエの相手をするようで、本当に面倒なことだったろう。確かに、先輩記者と軍議の相談をするがごとく真剣な表情で顔を寄せ合った後で、未熟な記者に向けられた眼差しは、ちょっと戸惑うような悲哀を含んで見えた。


それでも、四六時中後を追って、苦楽を身近で見た立場からすれば、その年の10月31日、“中曽根裁定”によって、次の総理大臣が竹下登幹事長(当時)に決まった夜は、とりわけ印象深いものだった。富ヶ谷の安倍邸では、安倍派幹部が悲嘆に沈んでいた。他社の先輩記者の何人かが悔し涙を見せる向こうで、煮えたぎる思いを胸に収め、淡々とした表情で報告に耳を傾ける安倍さんの姿に、運命を粛々と受け入れる“潔さ”を感じたのは、私だけではなかったと思う。


それから半年余りが過ぎ、私は、“安倍番”から野党の担当に配置換えになった。安倍さんは、「俺が総理になれなかったから、君は野党担当に“左遷”されるのか」と、真顔で心配してくれた。私は答えた。「そんなことはないですよ。人事は全て栄転。運命を受け入れる“潔さ”を、幹事長(当時、竹下内閣で安倍さんは幹事長に就任していた)に教えられました」。こう言うと、安倍さんは、今も懐かしく思い出される、あの特長的な柔らかい手で、私の手をしっかりと握ってくれた。


その後しばらくして、私は、仙台放送局に転勤することとなり、当時既に病を養っていた安倍さんを、赤坂プリンスホテルの中にあった事務所に訪ねた。政治記者にとって地方勤務は“都落ち”とも言われるが、転勤の挨拶をする私に、安倍さんは、「今度も栄転なんだよな」と優しく言い、私の手を温かく包んでくれた。


安倍さんは、政財界を覆ったリクルート事件に巻き込まれ、病にも侵されながら、それでも力の限り懸命に、日本の政治の立て直しに奔走していた。ソ連の初代大統領ミハイル・ゴルバチョフの来日を実現して旅立った姿には“外交の安倍”の最後の執念が宿っていた。


安倍さんが亡くなってから20年余りが過ぎた。


NHK放送文化研究所の所長として、政治の世界と多少の距離を置きながら、真摯に向き合っていけているのは、運命の前にたじろぐことなく、それを潔く受け入れ、人生を全うした安倍さんの背中を追えたからだと、今も心から感謝している。



もりもと・かずのり NHK放送文化研究所長


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