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取材記者とぶつかり心を通わせた東郷文彦さん(伊奈 久喜)2012年6月

1976年4月、新聞社に入って政治部に配属され、首相官邸担当を命じられて官邸に行った。初めて名刺交換したのが「東郷さん」だった──。これが本当なら運命的な出会いである。嘘ではない。ただし東郷違いではある。


先輩記者に連れられて初めて官邸に足を踏み入れ、コンクリートの前庭を歩いていると後ろからカクカクカクと靴音がした。薄いアタッシュケースを下げたその人は私たちに追いつき、並んだ。


先輩記者が紹介してくれた。「これはうちの新人。こちら朝日の東郷さん」「ああ、伊奈君ね。よろしく」。朝日新聞政治部の東郷茂彦記者だった。


当時の官邸の主は三木武夫。私たちは同じ三木番記者になった。「私が会った(はずの)あの人」東郷文彦さんは、茂彦さんの父であり、当時は駐米大使だった。


会ったと確信が持てぬ東郷さんの話をここに書くのは、朝日OBの冨森叡児さんの厳命だからだ。外交官・東郷文彦の足跡をたどる本を書くにあたり、冨森さんに取材したのが縁である。


首相番記者にとって外交官の最高峰である駐米大使は、じっくり話を聞ける相手ではない。が、一時帰国して官邸に報告に来ることはあり、取り囲んで話を聞いたはずである。


非主流を生きた老獪な政治家と硬骨の外交官との関係である。三木・東郷関係は良くはなかった。「東郷君には国民感情が分かっておらん」。有馬龍夫元政府代表が2011年末に公刊されたオーラルヒストリーで、そんな三木発言を明らかにしている。


明確な記憶はないのに、東郷さんに会った気がするのは、36年の時間の流れであり、本を書くために縁のあった人々から話を聴いたせいでもある。だから無意識に硬骨の外交官と書いてしまう。


ぶっきらぼうだが、同時に情に厚かった。ぶっきらぼうだから、時に記者とはぶつかる。情に厚いから、心通う記者も少なからずいた。自著『日米外交三十年』(中公文庫)にも、ふたつの面がでてくる。


1969年4月に沖縄返還交渉のために北米局長として訪米した時の話である。


「ワシントン駐在の日本人記者団から会見を求められ、会談の中身を何も話さないとか、物の言い方が気にいらないとか、大分文句を言われて閉口したが、これも致し方ないことであった」


衝突相手は、当時の読売新聞ワシントン支局長だったらしい。いまも健在な大記者である。


記者たちとの心の触れあいを感じさせる個所もある。駐米大使を終えて80年春に帰国する前のことだ。


「ワシントンの大雪の夜、毎日新聞の寺村さんの家での私たちの送別会は、中日東京新聞の大江さんが『さようなら』と切り紙を壁に飾り、日経新聞の一木さんは昔鳴らした応援団のエールで送ってくれるなど、永く忘れることはできない」


寺村さんとはワシントンでビジネスに転じた寺村荘治記者、一木さんとはテレビ東京社長を務めた一木豊記者である。大使の送別会を記者の自宅で開く。20年前の筆者のワシントン時代にはすでにあり得なかった。

 いな・ひさよし 日本経済新聞特別編集委員


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