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私が会ったマイク・マンスフィールドさん(松尾 文夫)2012年5月

「ただのプロ・アメリカンにすぎない」

とにかく答えが短かった。何を質問しても、ほとんど「イエス」「ノー」「そうかもしれない」「そう期待する」「知らない」「いえない」─といった六つぐらいのパターンに収まって戻ってきた。


それでも十分記事になり、全国紙を含めた当時の加盟社によく使われた。沖縄施政権返還がようやく実現に向かって動き出した頃で、インタビューの相手が、早くからの沖縄施政権返還支持者で、その議会での承認のカギを握る民主党上院院内総務、後に大使として日本にやってくるマイク・マンスフィールド上院議員だったからである。半年に1回ぐらいの割で会えた。1966年1月から69年4月まで、アメリカの激動期を取材した最初のワシントン特派員時代の忘れ得ぬ思い出のひとつである。


当時30代前半、日本のワシントン特派員団の中でも最若年のグループに属した私が、なぜこれだけの大物と何度も会えたのか。ワシントンに移る前、約1年いたニューヨーク勤務時代から、ワシントンでは沖縄施政権返還問題の取材が勝負になると読んで、ニュースソースの確保を仕込んだからである。コロンビア大学教授におさまっていたケネディ時代のアジア担当国務次官補、ロジャー・ヒルズマン氏に目をつけ、ワシントンでの沖縄関係のニュースソースの紹介を頼み込んだ。同氏が即座に紹介してくれたのがマンスフィールド院内総務の補佐官に就任したばかりのフランシス・バレオ氏だった。これが大当たりだった。


57年の段階で沖縄を現地調査し、施政権の早期返還を提案するリポートをまとめあげていたこともあるバレオ氏はイタリア移民の2代目。会ったときから気持ちが通じた。マンスフィールド院内総務の日程を握るアルメニア移民の秘書を紹介してくれたのが大きかった。彼女のお陰で69年4月、私が任期を終えるころには、マンスフィールド院内総務が上院本会議場横の細長いオフィスを出て、上院本会議場まで行く約5分間を一緒に歩いて、質問に答えてもらう「単独会見」の「特権」をもらっていた。


その後、議会スタッフとしては最高位の上院事務総長までのぼりつめたバレオ氏は、家族ぐるみの終生の友人であり、アメリカ政治の「読み方」についての貴重な指南役だった。


このマンスフィールド議員が私に一度だけ多弁だったことがある。


「私は日本では、プロ・ジャパニーズ(日本びいき)の議員として通っているらしいが、これはたいへん迷惑なことだ。確かに私は日本および日本人を尊敬している。日本がかかえる問題も理解しているつもりだ。しかし、もし私の発言や行動が日本のためになっているとしても、それは私が米国のためになると思ってやったことの結果にすぎない。沖縄返還も、米国のためになるから賛成しているのだ。私はごく普通の愛国的な米国人でしかない。ただのプロ・アメリカン(米国びいき)にすぎない」


私が帰国する挨拶も兼ねて最後のインタビューに訪れた時である。このいつになく感情を露わにしたマンスフィールド議員の言葉は、今も昨日のことのように鮮明である。


ワシントンを訪れる日本側要人の中には、同議員をまるで沖縄施政権返還実現のためのロビイストのように扱うものまで出始めていたころである。「ただのプロ・アメリカン」と「ただのプロ・ジャパニーズ」が軌跡を同じくする道を見つけ出すことの難しさ。日米関係は昔も今も変わらない。


そのマンスフィールド議員がなんと77年、22代目の駐日米大使として着任した。私のことは忘れておらず、当時の深瀬和己共同通信編集局長との日本のメディアとしては最初の単独会見に応じてくれた。短い答えは同じだった。78年には、私が50年代にまでさかのぼる大使の日本問題、ベトナム政策、中国問題についての演説や報告をまとめて『マンスフィールド、私の日本報告』と題して、サイマル出版会から出版することを快諾してくれ、序文を寄せてくれた。


マンスフィールド氏は01年、バレオ氏は06年、いずれも鬼籍に入られた。あらためて二人のご冥福を祈りたい。



まつお・ふみお ジャーナリスト 元共同通信ワシントン支局長


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