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私が会ったあの人 本田宗一郎さん(髙村 壽一)2012年4月

「異質」をテコに躍進

最も好きなものは─「仕事(ゴルフの如し)」、きらいなものは─「ウソツキ野郎」、自慢は─「心の若さ」、労働組合は─「絶対必要」、一番強いものは─「困窮の時期」、弱いものは─「女房」…


社長現役時代に雑誌のアンケートに対する本田宗一郎さんの答えである。資本主義は「アイデアを入れることでのびる」、共産主義は「修正しない限り絶望」。


あっけらかんが身上。「おたく(日経)の『私の履歴書』に、浜松のころの失敗物語を書いた。正直過ぎて損したかな。あとでほかの人のを読むと、みんな立派で格好がいいじゃないか」


ホンダ(本田技研工業)では、本田社長を「オヤジ」、藤沢武夫副社長を「オジキ」と呼んでいた。敗戦後の混乱期にモーターバイクの零細企業として出発し、マン島国際レースに挑みつつ小型オートバイに成功、わずか20年で世界ブランドを確立、さらに軽自動車、乗用車に進出した。


ホンダマンは工場の仕事着が似合った。「ウチには学閥なんてない。あるとすれば小学校閥」と本田さん。大企業になっても地方中小企業の雰囲気。激変する戦後社会を朗らかに走り抜けたが、ピンチもあった。


「特振法には本当に頭に来ましたよ」。1961年、通産省は資本自由化対策で特定産業振興法構想を打ち出し、自動車業界再編成に乗り出した。実績のないホンダやマツダはあぶれてしまう内容。


霞が関へ向かったホンダマンの背のリュックには「ホンダの新自動車の値段当て」の応募はがきが詰まっていた。「ホンダ新車をみんな待っているんだ」と攻勢をかけた。実は「そのとき広告に出した新車はまだできていなかった」。その後特振法は金融筋などの反対もあって廃案に。


本田さんは生涯、やんちゃなオーラを発していた。率直な発言は、そのまま自伝・評伝などのタイトルに。『得手に帆を上げて』『スピードに生きる』『私の手が語る』など。


「異質のものと組むことが必要だ。藤沢さんと組んだのもそういう考えからでね。本当の社長は経営全般を見てくれた藤沢さんだった。技術屋のわたしがずっとやっていたら何べんもつぶれていたね」


「他社に先駆けて米国に進出したのも、異質に触れることで開けて来るものがあると思ったからだね」


「頭のしっかりしているうちに次世代に。ただし一族の者は除外」と藤沢さんと73年、創業25周年を機に引退し、ともに最高顧問となった。世に「創業者のさわやか引退」と評されたが、実際は藤沢さんが辞表を提出し、本田さんが苦悩の末「おれもだ」と同調したのだという。ふたりには戦後時代が技術を含め一区切りしつつあることへの危機感があったのだろう。


「自分の姓を社名に入れたのはどうだったか」と本田さんは振り返る。それを藤沢さんに伝えると「そんなことを言うとはオヤジもヤキが回ったな。オヤジは本田、本田だった。それでいいんだ」


引退後のお二人は会社の現場には出向かなかった。和服姿の藤沢さんを上野の文化会館の音楽会でよくお見かけした。


本田さんから「成功は反省と努力」と即席で書かれた絵入りの色紙を記念にいただいた。絵は柳に飛びつくアオ蛙と次のジャンプを待つアカ蛙。壁に掛けているうちに、アオはオヤジ、アカはオジキに見えてきた。



たかむら じゅいち 元日本経済新聞社論説副主幹 武蔵野大学名誉教授 JXホールディングス取締役


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