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私が会った上間正諭さん(栗田 亘)2012年2月

上間正諭さんは羅針盤だった

ゴーヤを初めて味わったのは20年近い昔だ。那覇市首里の上間正諭(うえま・せいゆ)さんのお宅で、濃い緑色のジュースを頂戴した。冷たくてほどよい苦みが喉を通って染みわたり、元気なアオガエルにでもなった気分。本土ではまだ知る人が少なかったゴーヤの自家製絞り汁だった。


首里高校のグラウンドの斜め前に、娘の淳子さんが経営するジュン薬局がある。店の裏手に回り、玄関を上がってすぐ横の小さな日本間が上間さんの書斎だった。


痩身の主人は座卓の向こうに端座して、当方の挨拶を遮るように「それでねえ」と話し始める。数カ月ぶり、1、2年ぶりであっても、まるで昨日の続きだ。語り口はやや駆け足、でも選ぶ言葉は優しい。その自然体に甘えて沖縄を訪ねるたびにお邪魔した。


「歩く原則」と、社会部の先輩に敬愛を込めて紹介されたのが最初だったように思う。思考はやわらかだが、精神の背骨はまっすぐで太い。そんな意味合いだろう。


沖縄タイムスの元社長。記者になったのは戦争のさなかだった。あるとき一人の若者の戦死の知らせを他社に先駆けて入手した。那覇から遠く離れた村へと取材に走り、役場の兵事主任を伴って若者の実家を訪ねた。ひとり留守を守る母親に、主任が「名誉の戦死」を告げる。母親は「そんなバカなことがあるか。帰れ、帰れ」と叫んだ。なだめすかし、若者の幼い頃の話を聞き出した。「あんた方が憎らしい」と母親は泣いた。那覇に帰った上間記者は、一気に記事を書き上げる。「銃後の母は涙一つこぼさず……」と。


書きながら、ウソだと自分でもわかっていた。わかっていながら、戦意を鼓舞し銃後の守りを固めるのが新聞の使命だと信じて疑わなかった。


沖縄戦で上間さんも父と母、幼い二人の娘、姉と弟を失った。かろうじて助かった彼は、再び新聞記者にはなるまいと思い定める。


しかし1948年、ガリ版刷りで出発した沖縄タイムスに参加する。「残ったいのちで、戦争中に犯した記者としての罪を償おう。一所懸命、本当の新聞を出そう。でないと僕ら死ねないよ」。敬愛する先輩の言葉で、心は変わった。


首里のお宅は普天間飛行場への米軍機進入路の下にあった。何度か爆音で中断されつつ、上間さんは「沖縄のいまとこれから」を穏やかに説く。苦難を経てきた上間さんの世代は、決して焦らない。悠然と30年、50年単位でものごとを見る。


「こうあるべきだ、という未来に自分たちを置いて、そこから現在に直線を引いてみる。すると、どんな道筋を通ってその未来に到達したらよいかがわかってきます」。こうあるべき未来とは「基地のない沖縄」と表現できる。「歴史は変化します。いまの日米の安保体制も、50年100年変わらないわけではないでしょう」


朝刊コラムで沖縄を取り上げるとき、私は何度も上間さんの知恵を拝借し言葉を引いた。沖縄のあれこれを考えるうえで、私にとって上間さんは「羅針盤」だった。羅針盤という、古いけれど安定した言葉が似合う大先達だった。


20世紀の最後の年、2000年の元日に死去。84歳。


くりた・わたる コラムニスト 元朝日新聞「天声人語」執筆者



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