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「アラブの春」から思い出す 1991年のモスクワ(松浦 茂長)2011年12月

パリのアパートの隣人の一人はシリア人である。玄関が直接歩道に面した間取りなのでプライバシーにこだわる人には住み心地が悪いだろうが、社交的なわが隣人にとっては理想的ロケーションのようだ。ドアの前に立って、通りかかる人を片っ端から友達にする。


朝の常連は緑の制服を着た道路掃除のおじさんで、シリア人のふるまうコーヒーを飲みながら一服する。僕もときどき台所でコーヒーをごちそうになるが、なかなかの味だ。初めて彼の台所に招かれたとき、ひょっと棚の上を見ると、キリスト教神学の専門書が無造作に投げ出してあった。


去年はラマダンが8月だったので、わが隣人は朝4時前に食事の支度を始めた。ラマダンになると太陽がある間、イスラム教徒は飲むことも食べることもできない。ヨーロッパの夏は日が長いから、ラマダンの掟を守るのは中東より大変だ。おまけに、パリのアパートは午前7時前に音を立ててはいけない決まりがある。わが隣人は「食事の音が聞こえるかい?」と申し訳なさそうに聞いてきた(なにしろ我らがアパートはとびきり遮音が悪い)。


「聞こえるけど、気にしてない」と言うとほっとした様子だったので、すかさず「日本人は寝る前に風呂に入る。テレビで良い映画をやるときは、風呂に入るのが遅くなるけれど、うるさいかい」と聞くと「気にしない」という答えが返ってきた。有利な取引成立だ。


さて今年は「アラブの春」。若者のデモによってチュニジアで大統領が逃げ出したのに続き、エジプトでも大統領が倒れ、イエメン、バーレーン、リビア、シリアに独裁者打倒の波が広がった。わが隣人がこの「春」をどう迎えたのか、話を聞くのが楽しみだった。


ところが、3月20日にパリに来てみると、下の部屋は雨戸が閉じたまま。「祖国の闘いにはせ参じたに違いない。生きて帰ると良いが」と案じていると、意外に早く1カ月後に姿を現し、通りかかる人は「革命はどうだった?」と、声をかけて行く。英雄の帰還だ。


チュニジアとエジプトでは大きな流血なしに独裁者が退場したのにくらべ、シリアは大勢の市民が殺されている。リビアでは反政府側にも武器があり、米仏英が戦闘機を動員して反政府勢力を支援したのと対照的に、シリアのデモは非武装だった。銃はおろか、棒きれさえ持たない若者たちを、戦車まで繰り出して射殺する。それでもまた数万人がデモに出る。無鉄砲とさえ見えるあの勇気はどこから出てくるのだろう。


それは歴史のある時点、ある場所で恐怖の感覚が薄れる不思議な現象が起こるからだ。きのうまでの恐怖が嘘のように消えてしまう、あの瞬間、歴史は一挙に歩みを早め、有無を言わせず新しい時代に突入するのだろう。そして、恐怖のない静かな高揚を経験すると同時に、世界が違って見えてしまう。突然のパラダイム・シフトが起こるのだ。共産主義体制が崩壊した時も同じ現象が見られた。


●バリケードの内と外


ロシア人の日常は表面平穏に見えても、その底に火山のマグマのような巨大な恐怖のエネルギーが潜んでいる。だから何かショッキングな出来事が起こり、心に亀裂が生じれば、恐怖のマグマが激しい勢いで噴出する。1991年のクーデターのときのこと。わが支局のカメラマンはアフガニスタンの戦場を経験し、モスクワでも銃弾の下で平気でカメラを回す勇士だが、クーデター側の戦車が大通りに現れると涙が止まらなくなり、その夜倒れ、肝心のクーデターの3日間、臨時のカメラマンを頼まざるを得なくなった。


女性の助手はクーデター期間中持ちこたえたものの、KGBの創設者ジェルジンスキーの像が倒されるのを見て吐き気をもよおしてうずくまり、仕事どころではなくなった。ゴルバチョフの改革でようやく西欧のような人間らしい生き方ができそうだと希望を持ち始めたところで、スターリンと粛清と強制収容所の亡霊がよみがえり、心も体も凍り付いてしまったのだ。


ところが、クーデターに反対する勢力の砦となったロシア議会周辺に行くと、人々の表情は驚くほど静かだった。ある男は「ニュースを聞いてから今日は一日中、足がガクガクして震えが止まらなかった。でもバリケードの中に来たら怖くなくなりました」と告白した。若い将校が早足に戦車に近づき、兵士を説得すると、戦車は一台また一台と民主勢力側についた。クーデターが成功すれば、彼らは反乱罪で処刑されるかもしれないのに、あの勇気はどこから来たのだろう。バリケードの外は、恐怖のため心も体も麻痺したような有様なのに、バリケードの中は秩序と静寂があった。ロシア人は整頓とか清潔とは無縁の人たちだと信じていたが、バリケードの中はきれいに掃除され、市民から贈られた食料品がところどころにきちんと積み上げられ、誰も手をつけない。


教会の合唱指導をするというセルゲイ・バクダノフスキーは、熱っぽい目をした小柄な若い男だった。ちょうどロシア正教復興の時期だったので、宗教をテーマにした取材に協力してもらううち、仕事を離れて音楽や文学について語り合うようになった。91年のクーデターの3日間、彼はエリツィン(当時ロシア大統領)のいる議会の建物にたてこもって抵抗運動を組織し、何回かファクスでわが支局にも情報を送ってくれた。


クーデターが片づき、早速支局にやって来たバクダノフスキーは「これまで僕はロシア人であることを恥じていたけれど、今はロシア人であることを誇りに思います」と、泣き出さんばかりの勢いだった。いつもの皮肉のきいた雄弁はどこへやら、「すごかった。すごかった」を連発するばかりで、なぜロシア人であることに誇りが持てたのか、一向説明にならなかったが、気持ちはよく分かった。


●バクダノフスキーの悔恨


しかし、有頂天の熱狂が失望に変わるのは早く、半年後には「新聞を読むのが恐ろしい。誰も彼も金を儲けることしか考えなくなった」と嘆き始めた。失望が病気を招いたのか、癌にかかったバクダノフスキーはますます痛烈な毒舌を吐くようになり、最後に会ったときは、「死と臨終の苦しみは怖くないが、祖国を許せないまま死んで行くのがつらい。こんな国を子どもたちに残すのかと思うと、罪の意識にさいなまれる」と言った。


もうひとつバクダノフスキーが言い残した言葉も痛切だった。唐突にKGBとの関係について話し出したのだ。自分のこととしてではなく一般論として、ロシア人が少し人と違った仕事をしようと思ったら、KGBとの文書にサインするのは避けられないと弁解する。モスクワで働くジャーナリストはそんなことは百も承知だけれど、彼としては何かを告白せずにいられなかった。本当は「あなたを裏切った」と言いたかったのだろうが、遠回りな一般論でしか言えなかったところに、かえって心の傷の深さを思わされた。


あの日バクダノフスキーがあんなに感動したのは、非武装の市民が軍・KGB・内務省トップによるクーデターに勝ったという事実より、むしろバリケードの中で初めて、恐怖から解放される経験をしたためではないだろうか。隣人を裏切らなければ生きられない罪責感から解放され、仲間と連帯して闘う喜びをかみしめた。バクダノフスキーのような宗教的人間にとっては、魂再生の体験と言っても過言でないだろう。お互い監視・密告しあう孤独な関係から、信頼し連帯する関係に一気に変わり、嘘のように恐怖が消え去ったのである。


「アラブの春」を闘った人たちにも、失望と悔恨の時が来るだろう。しかし、恐怖を忘れる「恩寵の時」を共有した国の歴史は、もう前と同じではない。チュニジアでもエジプトでも、デモに出た若者たちはそろって人間の「品位」ディグニティを口にしたが、こうした無償の献身と犠牲こそがその国の歴史の品位を高めてくれるのだから。


まつうら・しげなが 1945年生まれ 70年フジテレビ入社 ロンドンのBBC海外放送へ出向 モスクワ特派員 パリ支局長 定年後は夏の5カ月をパリで過ごす

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