取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
私が会った若き日の牛山 純一さん(池松 俊雄)2011年12月
時代を撮れ! テレビはアップだ!
報道部に配属が決まり挨拶に行って最初に会ったのが牛山純一、当時、彼はニュースのデスクだった。現場を仕切るのが似合う男だった。昭和32(1957)年のことである。
駅前の街頭テレビに群集が群れ、プロレスや野球中継に歓声をあげていた時代だ。テレビ黎明期であるこの頃、最大のイベントは昭和34年の皇太子明仁親王と正田美智子さんのご成婚パレードであった。
お二人を乗せた馬車が、二重橋から青山の東宮仮御所までの8・8キロを走る。開局6年目のテレビ局にとっては、初めての大仕事である。社内には牛山を総指揮官にして特別班ができた。私も一員であった。
牛山の構想は、3時間の実況中継番組でテレビジョンの素晴らしさを実証するというもの。そのためにはカメラの台数が成功の鍵を握るのだ。
当時はどこの局にも十数台のカメラしかなかった。牛山は系列局以外からも中継車とカメラを借りるため奔走した。
皇居前から警視庁前→半蔵門→四谷見附…中継のカメラポジションを決めるのに、およそ2カ月もかかった。
この間、牛山は望遠鏡を首から下げ、鬼の形相で沿道を歩き回っていた。そしてかき集めた中継カメラは実に36台。本社のスタジオカメラを道路に引っ張り出したり、数箇所のビルの屋上に俯瞰カメラを載せるという画期的な配置であった。
3時間の想定台本も作った。
通称「牛山部屋」は「蛸部屋」になっていた。一度入ると脱出困難という意味だ。かく言う私は、以降この蛸部屋に十数年お世話になるのだ。
半年に及ぶ準備がすべて整った放送前日、突然、牛山が頭をかきむしりながらほえたのだ。
「今のカメラ位置は間違いだ! 国民が見たいのは美智子さんの顔だろう! 屋上のカメラは全部沿道に下ろせ。国民が見たいのは美智子さんのアップだ!」
そう言うと、牛山はスタッフの前で頭を下げた。“カメラを下ろせ!”
技術班はせっかく運び上げたカメラを、夜を徹して下ろした。誰も文句を言わなかった。
私は牛山のこの決断が、歴史に残る中継になったと思うのだ。テレビはアップだ! アップで勝負!は、若き時代の牛山の名言であろう。
通称「牛さん」はその後テレビの中に「ドキュメンタリー」というジャンルを築き上げたのである。牛山の企画力は抜群だったが、実は優れた営業マンでもあった。そしてスタートした「ノンフィクション劇場」は、ドラマツルギーに挑戦した名シリーズになった。しかし「ベトナム海兵大隊戦記」が残酷過ぎるという中傷で、放送中止に追い込まれた。
その後、牛山は数名の社員を連れて「牛山プロ」(日本映像記録センター)を設立、自然賛歌の「素晴らしい世界旅行」や「知られざる世界」を制作することになる。
いまにして思えば、牛山の方向転換は見事であった。昭和47年のことだ。
牛山は優れた企画者であると同時に、時代を読む制作者であった。「時代を撮れ!時代を記録しろ…」が口癖だったが、ドキュメンタリーの真髄がそこにあると思う。 牛山純一が亡くなって14年である。
いけまつ・としお 元・日本テレビ取締役事業局長 1976年度日本記者クラブ賞受賞