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カンボジア断想1 平和は衝撃的だった(友田 錫)2011年10月

わたしがはじめてカンボジアに足を踏み入れたのは、1968年の夏だった。以後、カンボジアの戦火が完全に熄むまでのほぼ4半世紀の間、カンボジアという国の運命の激しい移り変わりを見続けてきた。いまでも、二つの対照的な光景が私の目に焼きついている。


1967年2月からほぼ一年半、わたしは南ベトナムで戦争取材に明け暮れた。68年1月末の北・解放戦線によるテト(旧正月)全土いっせい攻撃のときには、南の首都サイゴンも市街戦の舞台になり、ほぼ10日間、取材と送稿とでほとんど寝るひまがなかった。大統領宮殿のわきでは、飛び交う銃弾の下で道路のアスファルト舗装を掻きむしりながら、突っ伏していたこともあった。攻勢が一段落した3月に帰国した。だが半年も経たないうちに、こんどは隣のカンボジアの首都、プノンペンに赴任することになった。


◆プノンペン赴任◆


ひとこと、このカンボジア行きについては注釈を加えておかなければならない。隣の南ベトナムで戦争が荒れ狂っていたのに対して、カンボジアは、指導者、シアヌーク殿下の中立政策によって、戦火をまぬかれていた。しかもこの「中立」は、どちらかというと北ベトナムや中国との距離が近い「東寄り中立」だった。その表れのひとつが、西側の報道陣を締め出していたことである。だがプノンペンには大事な取材対象である北ベトナムの外交団や南・解放戦線の代表団がいた。わたしもふくめて多くの「ベトナム屋」の記者は、何とかしてカンボジアに入りたいと願っていた。


突然、その機会がやってきた。テト攻勢でショックを受けたアメリカのジョンソン政権の呼びかけで、北ベトナムとの和平交渉が開かれることになったのだ。場所はどこか。カンボジアは中立国だし隣国でもあるので、その首都プノンペンになるのではないか。こんな憶測が世界を駆け巡り、日本のメディアもいっせいに記者の入国許可をカンボジア政府に求めた。わたし自身、カンボジアの国家元首だったシアヌーク殿下と情報大臣とに許可申請の手紙を書いたおぼえがある。


ところが、二、三週間後に、和平交渉の舞台はパリに決まってしまった。しかもその直後に、カンボジア政府から入国を許す、という知らせが舞い込んだ。和平交渉の取材ができないのなら意味がないとも考えた。だが、せっかく入国できることになったのだから、とにかく行ってみよう。社の幹部と相談してプノンペン入りを決めたのだった。


出発まえ、南ベトナムで、また解放戦線の攻勢があり、サイゴンでの取材仲間だった日本経済新聞の特派員、酒井辰夫記者が市内のアパートでロケット弾に被弾し、命を落とした。プノンペンに入る前日がちょうどその初七日にあたっていたので、サイゴンに立ち寄って、霊前に花を手向けようと思った。市中心部にほど近い旧知のアパートに出向いて、目を疑った。故酒井記者の部屋に、隣近所の住民がつめかけていた。熱心な仏教徒である彼らは、隣人だった日本人記者の初七日を忘れていなかったのだ。わたしの胸に、あついものがこみあげてきた。


硝煙のくすぶる南ベトナムのサイゴンを後に、わたしはプノンペンに飛んだ。降り立って、そのあまりの平和なたたずまいに、わたしは強風に打たれたような衝撃を受けた。


◆平和の迫力◆


サイゴンのタンソンニュット空港は、戦時下のこととて軍用機や民間機、また武装した兵士や警官でごった返していた。プノンペン空港はそこから直線距離にして約250キロ、プロペラ機でたった30分の距離にある。着陸すると、そこには別の世界が開けていた。突き抜けるような青い空の下、広大な敷地には人影も少なく、軍用機の影はおろか、旅客機の姿もまばらだ。空港を一歩出ると、プノンペン市街までの道路わきには火炎樹の並木が点在し、強い日差しを受けた大弁の花の燃えるような真紅が目に痛かった。


道路わきのところどころにたむろする農民とおぼしき男女の屈託のない、穏やかな表情。ほんの数時間前までこの身をおいていた殺伐としたサイゴンと、何と対照的であることか。平和というものに人を圧倒する迫力があることを、わたしは生まれてはじめて知った。


戦争という巨大な歯車が回っている南ベトナムとはちがって、平和なカンボジアではニュースの種を見つけるのに苦労した。国家元首として独裁的に国を動かしていたシアヌーク殿下は、何か行事があるたびに、外国の報道陣と駐在の外国の大使たちを引き連れて「臨席」する。そんな機会を利用してカンボジアの地方を何度か訪れた。また、そう忙しくないのをよいことに、借りたフォルクスワーゲンの「かぶと虫」を転がして、200キロ以上も離れた田舎道の国道をひた走って、アンコール・ワット寺院やアンコール・トム遺跡などを訪れた。夜道になることもあったが、身に危険をおぼえたことは一度もない。



◆ベトナム人狩り◆


歴史、というものは、しばしば民族の怨念を育み、膨らませる。かつてアンコール王朝の版図はサイゴン付近からメコン・デルタを含むいまのベトナムの南部に広がっていた。が、17世紀から19世紀前半にかけて、北方から南下してきたベトナム勢力によって、その広大な領土がのみこまれてしまった。メコン・デルタ地方には、いまでも約90万人のクメール系住民がいるといわれる。悪名高いポル・ポト派の指導者のひとり、イエン・サリも、そのひとりだ。


さらにカンボジア人のベトナム人への恨みを増幅させたのが、19世紀からのフランス植民地統治の仕方だ。フランス当局はカンボジアを治めるのに、ベトナム人を警官とか徴税吏とかの憎まれ役に使った。このことが、カンボジア人のベトナム人への反感をつのらせた。


カンボジア滞在中に、こうした反ベトナム感情の断片を垣間見ることがあった。そしてカンボジア人のベトナム人への憎しみの深さを思い知った。


ある日、午前中の取材を終えて昼ごろ、支局兼アパートに戻ってくると、40がらみの屈強なカンボジア人の管理人と、食事などを作ってくれる若いベトナム人のお手伝いさんが、取っ組み合いをせんばかりに言い争っていた。「まあ、まあ」と割って入り、いったい何があったのか、と問いただした。管理人はお手伝いさんに指を突きつけて、叫ぶようにいった。「こいつらベトナム人はいつも俺たちをバカにするんだ!」


管理人が帰ったあと、お手伝いさんから喧嘩のいきさつを聞いた。たまたま、料理用のプロパン・ガスが切れたので、ボンベを買ってきてほしいと管理人に頼んだ。彼は町に出て行ったが、やがて「どこも売り切れで見つからなかった」と手ぶらで戻ってきた。彼女はそこで、管理人に「頼りにならないわねえ」と悪態をついたらしい。その一言を聞いて管理人がキレた。「いつもベトナム人はカンボジア人をバカにする」。日ごろの反ベトナム人感情が噴き出してしまったらしい。


その後、二つの民族の反目、いがみ合いのもっと深刻な場面を、何度か目にする機会があった。そのようなとき、いつもこの日の些細な喧嘩のひとこまが、脳裏によみがえってきた。


◆暗転◆


それでも、当時のカンボジアは総じて平和で、人びとは貧しくてものどかな暮らしを楽しんでいたと思う。それから2年足らず。1970年3月18日、サイゴン政権やアメリカ、旧宗主国フランスの出先資本などとつながりのある軍部の領袖、ロン・ノル将軍らが、シアヌーク追放クーデターを起こした。国家元首だったシアヌーク殿下が南仏に「保養のため」と称して滞在していた留守をねらっての決起だった。この日を境に、カンボジアをすっぽり包んでいた平和の雲は吹き飛んでしまった。全土が内戦の巷になり、同時にベトナム戦争の奔流が国境を越えて流れこんできた。


この年の4月初旬、わたしは東京からカンボジアに飛んだ。プノンペンを覆っていたのは、あまりにも荒んだ空気だった。目抜き通りを、完全武装の兵士を満載した軍用トラックが轟音をたててひっきりなしに走り抜けていった。レストランやカフェには、すさんだ顔の兵士たちがわがもの顔で群れていた。特に衝撃的だったのは、旧知のベトナム人街で繰り広げられたベトナム人狩りの光景だ。目を血走らせた兵士たちがトラックで乗りつけ、家の中から老若、男女を問わず引きずり出し、トラックに押し込んでいずこへともなく運び去った。


数日後、わたしはこうしたベトナム人たちの運命を、この目でたしかめることになる。


わたしのいた産経新聞の兄弟会社であるフジテレビの特派員二人、日下陽、高木裕二郎氏が取材中に、プノンペンから東へ、ベトナム国境に向かう国道1号線上で行方不明になった。日下記者とは3年前の1967年、南ベトナムの民政移管のための大統領選挙を取材するために、まるまる一週間、メコン・デルタを一緒に駆け回った間柄だ。


二人の捜索のため、わたしは小型の乗用車をチャーターして、プノンペンから70キロ前後東南にあるメコン川をフェリーで横断し、かなりベトナム国境に近い現場とおぼしき地域まで毎日、通った。二日目だったか三日目だったか、フェリーが桟橋を離れて少しメコン川の沖合いに進んだとき、上手から、流木らしきものが川面を埋めて流れてくるのが目に入った。川のほぼ中央にさしかかったとき、その流木らしき群れがフェリーを取り囲んだ。


なんと、流木と見えたのは、いずれも針金で腕を後ろ手に縛られ、ぱんぱんに膨れあがった人間の死体だった。フェリーに乗っていたカンボジア人たちが、口々に「ユーン(ベトナム人の蔑称)だ」と叫んだ。あとでわかったのだが、これらの死体の多くは、ベトナム人狩りで連れ去られた住民たちの変わり果てた姿だった。


いまから思えば、はじめてカンボジアの土を踏んだときに強烈な印象を受けた平和なたたずまいの裏には、もろもろの危険の「根」と「芽」がかくれていたのだ。とはいっても、人びとはたとえ表面だけにせよ、いのちを脅かされることのない日常を持つことができた。内戦勃発後、その日常は消し飛んでしまった。


ある夕方、荒んだプノンペンの大通りの歩道で、顔なじみのタバコ売りの老婆に出会った。近寄ったわたしに、太平洋戦争中の日本軍の進駐時代におぼえたのだろう、片言の日本語で話しかけてきた。



「シアヌーク、北京に行ったネ。シアヌークのいないプノンペン、ジョウトウないネ」。


シアヌーク殿下のいた頃の平和な日々を、老婆は懐かしんでいるように見えた。


(元産経新聞記者、2011年10月20日記)

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