ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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私が会った若き日の松崎明さん(城山 邦紀)2011年9月

鬼の動労 私についた唯一の嘘

動労(国鉄動力車労働組合)は当時、国鉄ストライキを連発、鬼の動労と言われた。


1973年、動労東京地方本部委員長に就任した松崎明さんは、壁際で取材している労働記者を壇上からじろりと見て、「ここにブル新の記者がいる」と言った。面と向かってこんなことを言われたのは初めてで、強く反発した。


松崎さんは東京地本を拠点に、影の実力者として動労中央本部を動かしていた。前年の72年には地本書記長として順法闘争など反マル生闘争を展開、鬼と呼ばれた。


東京地本はそのころ東京駅の裏にあり、バラック建ての引き戸をがらりと開けるとヘルメットが転がっていて、数人の組合員の刺すような視線があった。「革マル」の噂が胸をよぎったのを覚えている。


そうして、75年のスト権ストに突入。11月26日から12月3日まで8日間にわたり陸海空の足が止まり、日本列島はマヒした。


修羅場で何度も取材に行くと、松崎さんは隠さずに本当のことを言った。意外だった。


あるとき、「松崎さんは革マルですか」と単刀直入に聞くと「違います」と一言。松崎さんが私についた唯一の嘘だった。黒田寛一の下、革マル派結成時の副議長であったことは後に本人も認めている。(『松崎明秘録』同時代社)


松崎さんのお嬢さんが小学校3年生のころ、当時女の子に流行のウサギの毛皮のポシェットを持って、都内の自宅へ夜打ちをかけたことがある。話しているうち、ふと「このマンションに住んでいる記者が『動労の松崎がここにいる』と住民に言うんですよ。弱りました」と漏らした。家族を思う心痛が伝わり、鬼も普通の親だと思った。その後、引っ越して行った。


国鉄分割民営化では、「組合員の雇用と生活を守る」をスローガンに、労使協調路線に180度転換した。「北海道の仲間が、東京に出てきてホテルマンになってくれたんですよ。もう、ストはしません」。リーダーの決断と孤独の中で組織を引っ張っていた。分割民営化に反対する国労を「トンボに眼鏡だ。先が見えない」と皮肉った。


松崎さんの人脈は驚くほど広かった。元警視総監の秦野章さんとはカラオケを歌う仲だった。しかし、革マルの影を引いてか、労働界では異端だった。「笹森さんに会いたい」と頼まれ、笹森清連合会長との橋渡しをしたが、松崎さんが急に中国へ行くことになり、実現しなかった。すでに革マルからは離れていたが、労働界主流の人脈に近付こうとした理由は何だったのか。幻のトップ会談だった。


2010年12月9日、突発性間質性肺炎で死去。74歳。偲ぶ会が11年3月3日、東京・品川のグランドプリンスホテル新高輪で開かれ、2000余人が参列。


光子夫人は「こんなにたくさんの人が支えてくださったとは」と絶句した。


同ホテルでは07年7月23日、平岩外四・元経団連会長の「告別の会」が開かれ、きらびやかな人脈や業績がパネル写真で紹介された。松崎さんの若い姿はデモやストに明け暮れる動画の中にあった。


正統と異端だが、人柄を慕って参列した人たちの気持ちは、どちらも同じように思えた。


動労の鬼逝きて今春の塵


きやま・くにき 元読売新聞社会部次長

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