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私が会った若き日の金子兜太さん(藤原 作弥)2011年7月

1970年代、30歳代の私が初めてお会いした金子兜太さんはすでに50歳代前半。本欄のタイトル〈若き日の〉にはそぐわないかもしれないが、91歳の現在でも、句会、吟行、講演などで全国を飛び回り、ますますお元気。したがって、40年前の若き日は、まだ青年のように若く、情熱的だった。


当時、私は日銀記者クラブ配属だったが、コンマ以下の数字を扱う金融取材は苦手だったので、ヒマさえあれば国庫局の『戦艦大和ノ最期』で有名な作家の吉田満さんや証券局勤務の前衛俳壇の旗手、金子兜太さんを訪ねては、文学談義に耽っていた。


金子さんはすでに一家を成して『海程』を主宰し、〈前衛〉と〈伝統〉とをアウフヘーベン(昇華)した〈真のリアリズム〉を目指し、脂の乗り切った頃だった。句作だけではなく、種田山頭火に注目し、小林一茶を再発見し、定住漂泊の〈求道者〉と〈存在者〉の生き方の研究に余念がなかった。


私は、重要文化財に指定された荘厳な日銀旧館の大理石の部屋を訪ねては、そうした研究成果に耳を傾けた。そして『金融財政』という専門誌に“道を求める日銀マン”の風貌と意見を紹介したが、その内容は金融とも財政とも関係はなかったものの、評判を呼んだ。


当時、同期生(昭和18年入行)は、理事、局長などに上りつめていたが、金子兜太さん独りが、課長はおろか係長より低い主査の地位にとどまっていた。それは南方戦線から生還し日銀に復職してしばらく、日銀労働組合(従業員組合)の専従をつとめ組合運動に専念した事情による。入行後すぐ海軍中尉として応召、太平洋トラック島では大勢の部下が餓死するのを見て、諸行無常を実感した心境からだった。


東大(経済)の卒論テーマは独占禁止政策。マルキストではなかったが、“丹頂鶴”(頭が赤い)と、一時は白眼視され、左遷の憂き目もみた。しかし常に庇護し続けたのは組合に対峙する経営トップにもかかわらず、俳人・金子兜太の才能をかっていた佐々木直総裁だった。


私と金子さんとは、その後もパーティーでお会いしたり、文通、献本のお付き合いが続いたが、平成3年、私が日銀副総裁に就任すると「びっくり!」と大書した祝電のようなお葉書を頂戴した。一杯やろうという話になり、まず日銀で落ち合うことにした。在職中には近づいたこともなかったという新館8階“赤じゅうたん”の役員室の感想は「大したことありませんね」。


俳壇における金子さんの活躍振りは現代俳句協会賞、紫綬褒章、詩歌文学館賞、日本芸術院会員、文化功労者……などの受賞歴が示す通りだが、決して偉ぶらず庶民的な肌合いは40年前と少しも変わらない。


昨年、日本記者クラブの記念講演の際、久しぶりにお会いしたが、テーマは狼や蛍に托したアニミズム論で、自然に回帰する近境とお見受けした。


卒寿を越えてますます、お元気なのは「長寿の母うんこのようにわれを産みぬ」という句にあるように家系の遺伝という。次のお祝いの節目は白寿。さらなるご活躍をお祈りしたい。


ふじわら・さくや 元時事通信解説委員長 元日銀副総裁

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