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私が会った若き日の岡本太郎さん(田所 竹彦)2011年6月

北京でも快男児 毛沢東像を前に「この人だ~れ?」

1978年4月、岡本太郎は日中文化交流協会代表団の一員として北京にやってきた。私は北京の常駐記者としてそれを「見た」に過ぎないが、先方も「若き日」といってもすでに67歳。8年前の大阪万博会場に建てた高さ70㍍の「太陽の塔」は見る人を驚かせたが、文化大革命終了直後でまだ内向きだった中国では、その名を知る人も少なかった。しかし、北京到着後の一挙手一投足は、快男児、岡本太郎の名に恥じないものだった。


この代表団は美術史の専門家で親中派の宮川寅雄団長のもとに個性的なメンバーも多く、話し好きの映画監督、篠田正浩らが一行の様子をくわしく教えてくれた。それによると、岡本太郎は北京空港に着くなり、当時の入り口正面にあった毛沢東主席の石膏像を見て「このゾウみたいに大きい人、だ~れ?」と言ったそうだ。確かにこの像も3㍍近くもある大きなものだったが、それを「太陽の塔」の岡本太郎が、ふしぎそうな口ぶりでコメントするところが面白い。


次いで一行は明、清両王朝の宮城で紫禁城とも呼ばれる故宮に案内された。天安門をくぐって進むと宮殿が連なり、黄の瑠璃瓦と赤い壁に包まれた特異な世界が開ける。


だが岡本太郎の美意識には合わなかったらしく、彼は身をよじりながら「俗悪! 俗悪!」と叫んだ。半世紀前にここを訪れて「こは夢魔のみ。夜天よりも厖大なる夢魔のみ」と『支那游記』に書いた芥川龍之介と、あるいは共通する印象があったのかもしれない。


北京の王府井あたりの盛り場は、車道でも当時は文字通りの歩行者天国で、自動車は人の波を押し分けるように徐行するしかなかった。腹を立てた太郎さんは自動車の中で「轢け、轢け、轢き殺せ」と連呼したという。差し回しの自動車運転手はもちろん中国人、助手席にはお目付け役を兼ねた中国側の案内者がいて轢き殺すわけもなかったが、当の岡本太郎さんはこんな戦いに疲れ果てたあげく、この旅行の目玉だった四川省見物を一人だけ取りやめて帰国してしまった。


漫画家の岡本一平と作家のかの子の間の一人息子として育った岡本太郎は、父母とともに行ったパリで10年ほど暮らし、画家になった。第二次大戦が始まった1年後の1940年に、ナチスの占領にいやけがさして帰国。ところが翌年には徴兵され、湖南省の奥地で4年間を一兵卒として過ごした。


敗戦後の捕虜収容所での1年間と合わせた5年間を、のちに彼は「冷凍されていたような気がする。わが人生で、あれほど空しかったことはない」と語っている。画家として大成したあとの訪中を含めて、中国とはあまりウマが合ったとはいえないが、それらの経験が無駄だったわけではない。


生誕100年を迎えてなお輝きを失わない彼の自由な生き方はここでも貫かれ、個人崇拝や画一主義に屈することはなかった。一方で、かつての毛沢東崇拝が中国でも形骸化し、行き過ぎた肖像画や建造物(北京の毛主席記念堂など)のありようが問題にされ始めているのを見るにつけても、駄々っ子めいた岡本太郎の戦いは、実はいい線を先取りしていたという感じすら与えるのである。


たどころ・たけひこ 元朝日新聞北京支局長

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