ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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私が会った若き日の小澤征爾さん(柴崎 信三)2011年4月

“日フィル助けて” 陛下に直訴

看板に偽りありで、正確には「私が出会えなかった小澤征爾さん」の話である。


入社してまだ数年の社会部遊軍記者であった私は、いまでは考えられないことだが兼務で宮内庁の担当を命じられて週に3日ほどは坂下門からお堀のなかへ通っていた。


昭和天皇はその日午前、上野の日本芸術院で開かれる第28回の芸術院賞授賞式に出席の予定だったが、当時喧擾を極めていた過激派の事件取材の応援だかがあって私は社内にとどまった。


通常の皇室行事では、報道機関に公開の場で天皇と参列者のやり取りはなかったから、短い予定稿をデスクに預けて現場の宮内庁の担当者と連絡をとり、「予定通り」に行事が終了したことを確認にして、それはそのまま夕刊の紙面の小さな記事となった。


夕刻、配られた各紙の夕刊を広げて「朝日」の社会面を繰ると、中央の脇トップに昭和天皇の前で長髪にサングラス姿の小澤征爾さんが熱弁をふるう大きな写真が目に飛び込んできた。


「小澤征爾氏 陛下に直訴」「日フィル助けて」


4段の見出しが躍っている。仰天した。「やられた」と冷や汗が滴ったが、なぜかデスクは叱らなかった。


昭和47(1972)年6月7日の出来事で、朝日の岸田英夫記者によるスクープだった。


小澤さんは当時36歳。20代の若さで指揮者になったNHK交響楽団では反発する団員のボイコットに遭って辞任、サンフランシスコ響の音楽監督など海外での活躍の傍ら、国内でかかわっていた日本フィルが経営難で解散の憂き目に直面していた。その窮状をあろうことか、天皇に直訴したというのである。


「皇室が楽団のパトロンになってほしい」という訴えだったのか、単に窮状を理解してほしいという趣旨だったのかは分からないが、現在にひき比べればはるかに近寄りがたい存在だった先帝、昭和天皇もさぞや驚いたろう。


大陸生まれで若い日、スクーターに日の丸を翻らせて欧州各地を音楽武者修行した小澤さんらしい、何とも大らかで天真爛漫な挿話である。


後年、小澤さんにインタビューでお会いしたのは松本のサイトウ・キネン・フェスティバルの折だったろうか。ついでにそのことに触れると「若気の至りで」と破顔された記憶がある。


「世界のOZAWA」の大きさを目の当たりにする場面は少なくなかった。2001年、ウィーン国立歌劇場の音楽監督就任という、世界の音楽家としての栄誉が決まった日に、たまたま出張先のウィーンに滞在していた。


日本人と知って取材先の相手からタクシーの運転手、ワインバーで隣り合わせになった紳士まで、次々と「おめでとう」の握手攻めに遭った思い出がある。


数年前、東京の地下鉄でいつもと変わらぬ若々しい姿を認めて会釈をしたが、その後の闘病と再起への思いを熱いまなざしで見守っている。


頑張れ「日本の宝」。


颯爽とした指揮台の姿を待っています。


しばさき・しんぞう 元日本経済新聞文化部長

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