取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
70日間の連合赤軍取材(前田 明)2002年4月
丹沢・妙義・浅間山荘
しかし年が明けても行方はさっぱりつかめない。暮れに、赤軍派の幹部だった学生が「アパートローラー作戦なんてやっても彼らは捕まりませんよ」と漏らした言葉が頭にひっかかったまま、松飾りも外された。
1月9日、警察庁5階の警備局を流していると、ベテラン幹部が「丹沢のキャンプ跡の汚物の中に安保共闘の機関誌があった」と、目が鋭く光っている。
これだとピンときた。横浜支局の野口元・県警キャップに確認を頼み、夕刊に「丹沢で爆弾アジトを発見」をたたき込んだ。
浅間山荘をピークとする70日間の連合赤軍事件の取材はここから始まった。
■鉄球作戦は完遂したのか
初の山岳アジトの発見より前に両派の非公然部門は合体していた。我々も警察も合体を把握できたのは丹沢から1か月以上たった浅間山荘事件の寸前。被疑者の追跡や組織解明の捜査は数歩、遅れていた。
急に動きが出だしたのは2月16日。同庁公安三課をのぞくと、いつもは賑やかな亀井静香・課長補佐が真剣な顔をして法律書をパラパラとめくっている。
とぼけもせず「妙義で連中らしい2人を見つけたが車に閉じこもり容疑がないので身柄を確保できない。公有林の木を無断で切ったから森林法はどうだろう」という。やっと丹沢、棒名などのアジト跡から、連合赤軍メンバーの「人」にたどり着いたのだ。
翌日、群馬県警の山狩りの取材にヘリで現場に向かい、川の中洲に降りる。妙義から軽井沢への極寒取材になるとは思ってもみなかった。
連合赤軍と警察の、いずれにとっても想定外の人質立てこもり事件に。混成部隊の警備陣もベスト・ミックスの状態とはいい難く、初動から歯車がかみ合わない面も。
山荘攻めの最終日の28日に登場した10トンクレーン車にぶら下げた1トンの鉄球のすさまじい破壊力は強烈だった。難航していた事件の解決の最大の作戦だったとの印象を残した。だが、私の取材では「鉄球作戦は完遂せず」となっている。
鉄球作戦の狙いは、ライフルなどを発射している3階の銃眼つぶしとし人質の安全確保のため屋根を破っての上からの機動隊の突入だった。しかし、クレーン車の足場が悪く鉄球が思うように操作ができず、鉄球作戦は午前10時から午後1時半で終了した。
経過を見ると予定通りの効果がでないのか11時15分ころいったん、鉄球作業を止める。銃眼を高圧放水でつぶそうと、鉄球指揮官の高見繁光警視庁警部は、放水車に移動中の11時27分に撃たれ殉職。
その30分後、最前線の塹壕にいた内田尚孝同庁二機動隊長が撃たれる。隊長は朝、同隊の突撃を前に「死ぬことがあってはならない。しかし、危険は多い。そういう事態になったらまず自分が撃たれる」と訓示した。隊長の狙撃の前に、部下が散弾銃で受傷している。
鉄球作戦は午後1時半に「エンジンルームに水が入り故障。「放水中止」になった。
ここでも私の取材のメモは「これ以上、期待できずやめた。クレーン車は動かせた」「テレビなどであれだけ注目されている中、計画半ばで中止とはいえない」となっている。
作戦は成功したのか。山荘の壁は大きく崩れ、階下のいくつかの銃眼はつぶした、だれが見ても功績は大だ。
しかし、計画通りに作業ができなかったことも事実ではないだろうか。それほど大きくはない山荘を対象にした作戦。もくろみ通りならば警察官の犠牲は最小限にとどめられたのではとも思う。
■次世代に何を残したのか
これより先の22日、「犯人を説得する」と山荘に近づいた民間人が撃たれて死亡した。この男性は前夜も試みて検挙されたが同夜中に釈放。なぜ、警戒厳重の非常線を素人が敗れたのか。よく調べれば簡単には釈放したりはしないはず。警察側のミスも加わり、民間人が最初の犠牲者になったともいえる。
その他にも夜間の合図の照明弾の発射手違いや、被疑者の割り出し作業、当初の無線の非効率的な使用などちぐはぐな面も目立つ。
垣間見る警察庁、警視庁の東京組と長野県警幹部らの信頼感の欠如を歯がゆく感じていた。
過激派事件に経験豊富な東京組に対し、長野は装備一つにも大きな差が。兄貴格の東京組が「理屈っぽく保守的だが誠実な」長野の県民性を理解すれば、より効率的な警備実施が可能ではなかったか。
事件後、元警察庁の幹部が本を出せば長野県警のOBらが不快感を示す。今年、1月にNHKが地元を主とした「プロジェクトX」を放映すれば、一部について今度は東京組が。わだかまりはまだ消えていないようだ。
東京からの指示のいくつかも現地を混乱させる一因になっていた。
テレビの総世帯視聴率が60%を超え、ピーク時は90%に近づいた。
冷静さを保つのも難しい中、警察だけに問題が出たわけではない。メディアにもまともとはいえない取材をしたり、報道もあった。
人質解放の翌日、重い気持ちをひきずりながら軽井沢を後にした。間もなく、前例のない凄惨なリンチで14人もの殺人事件が発覚し取材は、まだ続く。
3月19日の夕刊に「最後の男女2人の遺体は印旛沼」を送稿。電話の向こうで白木東洋・デスクが一言「ご苦労さん」
終わったが充実感もなく空しさだけが残った。
あの事件は次世代に何かを残したのだろうか。
今、政治への不満や社会不安が山積しているにもかかわらず、街中にシュプレヒコールも聞こえない。学生や若者は、不正義などへの真っ当な怒りを行動で表明する術を忘れたようだ。
連合赤軍事件は、日本の再生の活力に不可欠な若いエネルギーまで衰残させてしまったのか。
まえだ・あきら会員 1940年生まれ 62年毎日新聞入社 社会部で警視庁・警察庁クラブを12年間担当 警視庁キャップ 社会部長 編集局次長 紙面審査委員長などを務め 93年退任