ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

ベトナム戦争(細野 徳治)2003年2月

あの頃、戦場はすぐそこにあった
夕闇が迫る国道をフルスピードで疾走していたワゴン車が突然止まった。検問だ。若いカンボジア兵士が自動小銃を窓からこじ入れて銃口を車内の私たちに向けた。1970年5月、米・南ベトナム政府軍によるカンボジア進攻作戦を取材したときのことだ。

南ベトナムに特派されたばかりだった私は、米ABCテレビがチャーターした車に便乗し、国境を越えて国道1号線を西進した。数日前、フジテレビの高木祐二郎特派員ら外国報道陣4人が相次いで行方不明になった地域にさしかかると、ドン・べーカー特派員自らが自動小銃を構え、ベトナム人の助手がピストルを握りしめた。車内の緊張は頂点に達していた。

そこに兵士たちが降ってわいたのだった。私たちは彼らの制止を振り切ってそのままメコン河岬の町ネアクルンまで突っ走り、南ベトナム海兵隊の前線基地にたどりついた。その夜は、海兵隊が占領していた病院で明かした。

思い返すとかなり無謀な戦場初取材だった。自動小銃をまのあたりにつきつけられた不気味さを忘れることができない。

翌71年2月、米・南ベトナム政府軍はラオスに進攻する。戦場はインドシナ全域に拡大した。私は戦局分析記事で「ベトナム戦争はゲリラ戦から南北ベトナム軍が戦車を繰り出してわたり合う本格戦争へと移行した」と書いた。

ベトナム戦争取材の中でもこのラオス進攻作戦はとくに思い出深い。ベトナム戦争ほど報道の自由が確保された戦争は他にないとよくいわれるが、ここではまず「書かなかった話」ではなく「書けなかった話」を書く。

■米軍の報道管制をめぐる攻防

この作戦で、米軍は異例の厳しい報道管制を敷いた。その目的は「作戦に参加する米兵の生命を危険に陥れないため」だった。作戦が始まった1月30日から米援助軍司令部で海兵隊大佐によるブリーフィングが行われた。報道しないばかりでなく、情報として本社に伝えることもしない誓約をして出席を許された。

作戦の進捗状況が連日、事細かに説明された。ブリーフィングの内容が正しければ、ラオス領内への進攻はまだ始まっていないはずだった。ところがその矢先に、ラオス南部に南ベトナム政府軍部隊が降下したという独自取材に基づく記事を共同通信が配信した。進攻開始と判断したわが毎日新聞は一面トップで扱った。

当時はサイゴン支局と東京本社を結ぶテレックスはなく、いつつながるかわからない無線電話しか双方向の直接連絡手段はなかった。本社デスクは共同電を未確認のまま使わざるを得なかったのだ。この共同電がきっかけとなって報道協定が破られた。ライバル社の時事通信特派員が、本社からの突き上げに切羽詰まってブリーフィングの内容を明かしてしまったのだった。

その日、UPI通信支局を訪れると、そのことが話題になった。居合わせた米国人記者たちは、なぜかうれしそうだった。時事通信のフライングによって、報道協定が効力を失い早晩解禁される見通しが開かれたからだった。そして6日間続いた報道管制は2月4日に解かれた。実際にラオス進攻が始まったのは、さらに4日後だった。

進攻後の戦況は、毎日午後4時から行われていた定例ブリーフィングに発表の場が移された。作戦が長期化するにつれてニュース性のある材料が乏しくなり、発表を聞く報道陣の間では次第に緊張感が失われていった。いつ作戦が終了するかに焦点が絞られた。

進攻が開始されて40日後の3月20日のことだ。ブリーフィングの中で耳慣れない言葉が飛び出した。ラオス領内の部隊が「戦術的移動」をしたというのだ。「撤退」を直感した私は、南ベトナム政府軍スポークスマンに確認を求めたところ、彼は察してほしいと言わんばかりだった。

報告を聞いた真貝義五郎支局長は「そういえば旧日本軍も『転進』という言葉を使っていたな」といって私の見方に賛同してくれた。南ベトナム政府軍筋からも撤退の裏づけがとれたので真貝支局長が原稿をまとめ上げた。

毎日新聞は休刊日明けの3月22日付夕刊一面トップで「ラオス作戦、事実上終わる」と報じた。作戦は2日後の24日に終了したのだった。

■インドシナに散った仲間たち

ラオスの戦場でも報道陣に犠牲者が出た。そのひとりフリーランスのカメラマンだった鳩元啓三郎氏の人懐こい笑顔がいまだ目に浮かぶ。

ラオスに向かう前日、支局に遊びに来た彼は「ラオスの戦場取材は俺たちプロに任せろ。絶対に行くなよ」とくどいほど念押しして帰った。数日後、AP通信のカメラマンらと同乗していたヘリコプターがラオス南部で対空砲火によって撃墜されたのだった。

その死を誰よりも悼んだのは師匠の岡村昭彦氏だ。南ベトナム政府のブラックリストに載せられていて入国を許されないと思われていた岡村氏だったが、ひょっこり支局に現れて私を驚かせたばかりか、ラオスに潜入し生々しい戦場写真を撮影して無事帰還した。

「鳩元はなぜAPと同じヘリに乗ったのか」。よりによって世界中のメディアに配信されるAPのカメラマンと同行するなんて。岡村氏は「そのことが悔やまれる」と声を落とした。独自取材を貫き通した岡村氏ならではの強固なフリーランス魂に心を打たれた。

思えば私がベトナム戦争を現地取材した1970年から73年までの期間は、報道関係者に最も数多くの犠牲者が出た。サイゴンの闇市でヘルメット、野戦服、軍靴など戦場取材装備一式を揃えてくれた沢田教一カメラマンをはじめ多くの仲間たちがインドシナの戦場で不帰の人となった。

■近来の戦争取材は……

ベトナム戦争以後、湾岸戦争、アフガン戦争に至まで戦争の様相は激変し、取材する側の対応も大きく変わった。外信部長時代に起きた湾岸戦争の際には、イラクによる化学兵器攻撃に備え防毒マスクを調達して特派員に持たせたことを思い出す。そしていま米国によるイラク攻撃に備えて、取材する側はさらに厳しい対応策を迫られている。もはや戦場に近づくことすら難しくなってきた。ベトナム戦争取材から30年。隔世の感を否めない。


ほその・とくじ会員 1941年生まれ 64年毎日新聞入社 サイゴン ニューヨーク各特派員 外信部長 編集局次長 論説副委員長 96年退社後 フォーリン・プレスセンター専務理事 現在 同顧問 拓殖大学客員教授 日本女子大学非常勤講師
ページのTOPへ