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胃袋買われてサイゴン特派員(林 雄一郎)2007年6月

反ベトコンの頭目に好かれる
1964年10月、突然、サイゴン(現ホーチミン)特派員を命ずとの辞令が降ってきた。この2カ月前の8月、米駆逐艦がトンキン湾でベトナム側から攻撃されるというトンキン湾事件が起きていた(事件はデッチ上げだったことが後に判明)。状況はにわかに緊迫、各社は一斉に南ベトナムの首都サイゴンの支局開設に走った。だが社命は私にとっては文字通りの晴天の霹靂だった。

私は共同に入社してすぐ外信部、2年後に科学部、そして外信に戻って海外株式や商品、穀物相場を扱う外国経済班勤務、そこへサイゴン行きが来たのだ。私はベトナム語はおろかベトナムの植民地母語フランス語もできず、インドシナ半島の情勢に触れたことはない。これまでやってきた仕事とはどこにもつながりがない。大学での専攻語学がインド語だったから、それをインドシナと間違えたのでは、と思った。しかし私の疑問に外信部長いわく、「戦場になるかもしれない南洋の国だ。そこに支局を新規に開くんだ。胃袋の丈夫なヤツがいいんだ」。脳ミソの中身など問題じゃないという話に返す言葉もなく承知した。

■「仏教徒デモ」 にぶら下がり

前途の多難を思いつつサイゴン空港に降り立つ。西も東も分からない。どこで何を取材すればいいのか、見当もつかない。これまで各社は香港やバンコクの特派員を短期間送り込んでカバーしてきた。彼らは本社で契約している外国通信社のサイゴン支局で状況を聞き、送信済みの電文を見せてもらって記事をまとめていた。これは臨時の短期の滞在なら許されるが、常駐記者が毎日、外通からの“頂き”だけで書くわけにはいかない。

後に作家として文名を馳せる日野啓三氏が読売特派員として同じ頃、着任していた。2人で自力で書こうと話し合い、米国大使館が毎日開く定例の記者会見に出ることにした。だが早口の米語に、米軍用語が混じるのに、完全にお手上げ、われわれ2人の他に会見に顔を出す日本人記者はおらず、相談相手もない。

よほど情けない顔をしていたのだろう。週刊のUSニューズ&ワールドリポート誌の若い米人記者が声をかけてくれた。聞けば夫人が日本人とか。彼が毎日、会見後に内容を教えてくれるようになった。大いに助かったが、スピードは外国通信社電にまったくかなわない。

そこで独自の記事のタネとして、ベトナム側の政治、特に反政府色を出していた仏教徒の運動などを書くことにした。こうした記事は米英の記者たちはベトナム人の助手に任せていた。大きな記事になりそうなときは、米大使館サイドがブリーフィングを行っていた。米国人はベトナム政治の取材には出てこないことが多かったのである。

仏教徒の運動は統一仏教教会が束ねていた。しかし仏教徒たちは、当時、英語ができなかった。仲良くなった英字紙サイゴン・デリーニュースの編集局で、仏教徒の行動スケジュールを聞き、そのデモ行進に付いて歩くことにした。数日すると、カメラを下げたあの男は何者だと、仏教徒デモ隊の中で問題になったらしい。統一仏教教会幹部の英語の分かる僧侶が会いに来た。

私が日本人のジャーナリストで、スパイではないらしいと分かると、僧侶たちはいろいろなことを教えてくれた。仏教徒側の考え方、運動の戦略、行動の目標や日程が分かってきた。統一仏教教会は、様々の考えがあって一本ではないらしかったが、共通の色はナショナリズム。軍部の中で、ナショナリズムを色濃く持つ中部の出身者に、仏教教会と関係のある人が多かった。中部に勢力を張る大越(ダイベト)党は、国粋主義的右翼で反米の色があり、仏教教会やベトナム政府軍の一部将軍と関係があった。

1965年1月末、南ベトナムの最初の文民政府チャン・バンフォン内閣を軍の圧力で解体させるクーデターが起きたが、仏教徒や大越党に取材ソースができた私は、この動きをスクープすることができた。仏教徒デモに毎日、付いて歩いた成果だった。

■ハトキ氏の地下武装組織

このクーデターのとき、将軍たちと文民政府の秘密交渉の詳細、軍や政府側の行動スケジュールなどの詳細を事前に打電できたが、そのわけは、文民政府と将軍たちの折衝で窓口となっていた大統領府官房長が大越党のハトキ党首に近く、折衝の一部始終をハトキ氏に伝え、それをハトキ氏がすぐに私に教えてくれたからである。

ハトキは私にとても好意的だった。テト(旧正月)には私を自宅に招き、ベトナムのお節料理をふるまってくれた。ベトナム政情についての取材には昼夜なしに応じてくれた。この好意が、ただの好意ではなく、政治的な意図があったことが、65年7月、東京に帰任することが決まったところで分かる。

ハトキは私に帰国命令が出たと聞くと、自分の反ベトコン(南ベトナム民族解放戦線)地下組織を見せたいと言ってきた。大越党は反仏民族闘争を行ってきた国粋主義的ナショナリストの集団である。その流れの中部大越党を、ハトキは革命的大越党と改名して率いていた。地盤は中部のユエ(フエ)から南北ベトナム国境に接するクアンチ省までで、そこにハトキは村々を回り政治心理作戦を行う“政治的レンジャー部隊”を2個大隊、配置していた。

資金は米大使館を通さずUSOM(米経済援助委員会)から直接出ていた。ハトキ氏は、ベトコンに対抗する唯一のベトナム人の地下武装組織だと豪語していた。

ユエへの出発の直前、大越党の青年から、ユエ空港でタラップを降りるとき左手に英字紙デリーニュースを持っていることという指令が入った。その通りタラップを降りると、青年が寄ってきて、空港ビルを通らずに外に連れ出す。待機していた車で、ユエ市を流れるフォン川の岸辺に建築中のホテルの一室に入る。夕闇を待って小舟で川を渡る。曲がりくねった小路を行くと一軒の洋品店。中に入ると、天井からハシゴが降りてくる。昇ると中2階。中央の大テーブルにベトナム料理の大皿が並び、20人近い男が座っていた。ユエ周辺の地下の幹部だそうで、彼らが地下活動状況を説明してくれる。

乾杯のとき、グラスを上げたところで驚いた。サイゴンで毎日、飲み歩いていたデリーニュース紙の若い米人記者がテーブルの向こうで笑顔で会釈していたからである。後でベトナム人に聞くと、CIAだという。

■武器購入の仲介依頼

ユエ周辺の村を見て回った後、北の省都クワンチを訪れたが、ここでも、ビックリすることが待っていた。省長に会うと、日本の軍人がゲリラ戦を見に来ているというのである。連れてこられた日本人は、私を一目見るなり、床に手をつき土下座して「書かないでほしい」と懇願した。制服を着て、ローマ字で「田中」とあるプレートをつけている。省長によれば旭川から来た日本の将校だという。だが、本人は一切、答えず、書かないでくれの一点張り。会いたいという日本人が来ているといわれて来たのだが、記者とは思わなかったと泣き言を言う。

結局、すぐには記事にしないと約束した。帰国後、調べたが、そんな人はどこにもいなかった。いまだに分からない。

ユエから戻ったら、すぐ帰国する予定だった。その帰国の日の早朝、人の気配にはっと目を開けると、蚊帳越しに上から私をのぞき込んでいる顔があった。飛び起きると、ハトキ氏だった。頼みがあるという。「日本の右翼と連絡をつけたい。大越党として武器を買いたいのだ。紹介してくれ」と言う。ユエの地下組織招待はこのためだったのかと気がついた。

日本では国法で武器輸出が禁止されていることを説明、戦前のような右翼はいないと説いたが、頼むを繰り返すばかり。帰国して関係方面にあたってみると約束して、ようやく帰ってもらったが、もちろん日本ではとてもムリな話だったから、不義理をする他はなかった。

その後、ベトナム戦争がアメリカの戦争となり、東郷元帥に心酔するハトキの国粋的アジア主義は完全に出番を失ったのだった。



はやし・ゆういちろう会員 1934年生まれ 56年共同通信入社 サイゴン ワシントン支局 外信部長  国際局長 90年論説委員長 92年編集局長 96年編集顧問 98年退社

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