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政局の流れをつくる達人(海老沢 勝二)2006年12月

川島自民党副総裁に学んだこと
「政界は一寸先、闇だよ」と政治家や記者たちを煙にまき、政界の舞台回しをしていた自民党の川島正次郎副総裁を担当し、政治の見方などを学ぶ機会を得た一人である。

当時の政権は戦後派で官僚出身の池田勇人、佐藤栄作の時代で比較的政局が安定した中、所得倍増、高度経済成長期に入っていた。そして、1955(昭和30)年の社会党統一と保守合同によるいわゆる55年体制、それに中選挙区制のもと、政局は自民党が主導権を握り派閥全盛時代であった。

人間3人集まれば、派閥ができると言われるが、人間社会はいつの時代でもどこでも何らかの形で派閥が生まれ、その争いが絶えない歴史である。この派閥の功罪が象徴的に取りあげられるのが政界である。

自民党の歴史をみると、これまでだれでも政権の座につくと派閥解消を唱えたが、これは党内の派閥の力が弱まり、なくなることが自政権の利益につながるからである。だが現実は、派閥は解消されず、合従連衡・離合集散をくり返しながら振り子の原理よろしく、つまり政権のたらい回しともいうべき芸当で長い間、政権を維持してきたわけである。まさに自民党は派閥の力関係にもとづく派閥の連立政権であった。

この派閥のほかに、当時の自民党は政局運営の対立軸として、戦前派対戦後派、党人派対官僚派、保守本流対保守傍流、タカ派対ハト派、主流派対反主流などのレッテルをはり、これに人間の本性である嫉妬や妬みなども加わって、激しい政権抗争を続けてきたのである。

このように日本の政局を動かしているのは厳然として派閥である以上、各社とも政治部記者は何らかの形で派閥に関わる。私は外務省や首相官邸も担当するかたわら、川島副総裁を頭領とする川島派(交友クラブ)を中心に中間派を受け持った。

●カンと「読み」

当時の派閥は池田、佐藤、河野、大野の大派閥ほか、総裁候補を擁しない中小の中間派で成り立っていた。党内ナンバー2の川島副総裁は新聞記者出身で、政友会から昭和3年に千葉1区で初当選した戦前派の最後の党人政治家で、岸内閣時代に幹事長を、池田、佐藤両内閣では副総裁をつとめた。いつも「政局の安定なくして経済の発展・成長なし」と「政局の安定」を大義名分にかかげ、党内の対立をできるだけ避け、融和と結束をはかろうと、調整役としていわゆる「根回し」に飛び回っていた。

「政治は妥協である」と緒方竹虎副総理は述べ、大野伴睦副総裁は「政治は足して2で割るものだ」と言っていた。これは長年の経験にもとづくお二人の実感であったと思う。川島副総裁も利害がからみ対立する意見を聞き、大局観をもって調整を進めていたが、判断・決断は速くをモットーにしていた。

判断・決断するにあたっては確度の高い良質な情報が多く集まらなければならないのは当然であり、川島副総裁のもとには常に豊富な情報が入っていた。それは川島派が20数名の小派閥であったものの、その人柄や長い政治生活で各界各層に多くの人脈を築いており、他派閥にも親しい議員や面倒をみた議員をかかえていたからである。政治家の要件のひとつに情報収集能力が欠かせないことを学んだ次第である。

一方、多くの場合、党内への根回し、調整、人事など重要案件については謀(はかりごと)は密に、行動は敏速に行い、私ども記者たちに知られないようにすることであった。調整の内容や人事が事前にもれると失敗するし、まとまるものもまとまらない事態になってしまうからである。当時、淡島(佐藤邸)、大森(川島邸)に特ダネなしといわれたものだ。影響力の大きい最高権力者だけに、肝心なことを直接話法で言うことはなかったが、何となくそれと感じさせるものはあった。

このため、その生活や行動パターン、人脈、話す表情、クセなどを覚えるなど日ごろの努力に加え、カンと「読み」を養うことが大事であった。総論の政治家・川島副総裁は肝心なことになると「政界は一寸先は闇だよ」という格言を持ち出した。特に権力闘争の場である政界ではいつ何が起こるか分からない、人間も心の奥底まで見通すことは難しい。したがって物事は最後の土壇場まで、つまり下駄をはくまで、札(ふだ)をあけるまで分からないものだ。

だから、これは思い込みや希望的観測、予断を持って判断せず、慎重に対処した方がよいという意味だと私はみていた。

●幻の特ダネ“降格人事”

ここで幻の特ダネをひとつ取りあげてみる。昭和43年11月、佐藤3選後の内閣改造人事で木村俊夫官房長官を格下げして副長官に、後任の新長官に保利茂建設相をあてるというまさにサプライズ人事のことである。

この人事構想は残念ながら川島副総裁から直接とれなかったが、毎晩のように通っていた副総裁側近の藤枝泉介議員から得たものだ。昼間の佐藤・川島会談の内容を取材することができたのだ。

この特ダネをデスクにあげたが“そんな人事はあり得ない”とボツにされてしまった。人事はどこでも任命権者の専権事項であり、この場合、まず佐藤総理の立場にたって考えるべきであった。つまり、人事取材は思い込みや前例、固定観念にとらわれないことである。

これも私の第一線の記者時代のこと。昭和47年の「角福戦争」とともに脳裏にやきついている政権抗争は、昭和44年の暮れの総選挙で自民党が300議席を上回る大勝をした後の、昭和45年の佐藤4選問題である。自民党内では「人心一新のため引退すべきだ」「沖縄返還を成し遂げた後でよい」などの意見が出ていた。こうした中で注目すべきことは、佐藤3選の際は慎重に対処した川島副総裁が、今回は早い段階から先頭に立って、佐藤4選ムードづくりに乗り出したことだ。

まず表面上、副総裁が接触したのは、原則的に佐藤4選反対を表明していた、中間派の石井光次郎元衆議院議長であった。真夏の8月17日、札幌市にかつて北海道開発庁長官をつとめた元閣僚が集まった機会をとらえて、それも同行記者団の前で公開の形で川島・石井会談を開いた。

●達人の最後の大仕事

この時の模様を石井元議長が「川島正次郎追想録」の中で詳しく書いている。その一部を引用すると、まず石井氏が佐藤4選反対論を述べた後、「川島君は『石井君の言うような人心一新の必要はなく、後継者たちはまだ十分に育っておるように思えぬ』と、4選支持の意向をはじめて発表した。

つけ加えて『石井君と僕は全然違ったことを言っておるようだが、お互いに古い政治家だからよく分かっており、結局同じようなことを言っておるんだよ』と私をかえり見て笑っていたことを思い出す」と、石井氏は記している。

この川島・石井会談は人間の機微を知りつくした川島副総裁が十分計算した上で、マスコミ向けに仕掛けた一種の政治的演出であり、政治ショーであった。これが佐藤4選への大きな潮流をつくるきっかけになった。

このように川島副総裁が機先を制して早め、早めに布石を打ったのは、「政局の安定のため」という大義名分と政略的には政権交代の時期を遅らせることによって、一歩先んじていた福田赳夫氏の動きを鈍らせるとともに、この間に盟友の田中角栄氏の力を蓄えさせて、田中政権への道筋をつくっておこうという計算と思惑があったと思う。

そして昭和45年10月29日の党大会で、構想通り佐藤総理が対抗馬の三木武夫氏をおさえて4選を果たした。その11日後、「老人パワーは挑戦する」と外交課題にも意欲的に取り組んできた川島副総裁は、佐藤内閣が7年目に入った11月9日の朝、80歳、生涯現役で長い政治生活を閉じられた。

私の10月29日付のメモ帳に川島副総裁の最後の言葉として「これで僕の仕事は終わった」と書いてあった。

えびさわ・かつじ 1934年生まれ 57年NHK入局 政治部長報道局長 副会長 会長 ABU(アジア・太平洋放送連合)会長 現在 読売新聞調査研究本部顧問 横綱審議委員会委員長代行 杏林大学客員教授など
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