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英国風景画展(宮智宗七)2004年5月

「景色のような絵」の現場で困った
「絵のような景色」という表現があるが、その逆の「景色のような絵」の記事を書いたことがある。  私は1955年に日本経済新聞社に入社してから、95年に日経グループのテレビ東京解説委員長を退任するまで、ほとんど経済記者だけを続けてきた。その中で一回だけ、ロンドン駐在時代、こともあろうに、西洋絵画の読み物を書いた。

1970年11月7日付日経の文化面中央に掲載された「英国風景画のふるさと」というのがそれだ。基礎知識もカンもないのに書いた。なぜ、そんな大それたことをやる羽目になったのか。この時期に、日経が「英国風景画展」を東京で開催していたから、協賛記事を書いただけのことである。

●畑ちがいの絵画に困惑
 
「何でも書いてやろう」は自分のモットーには違いないが、これには本当に弱った。美術だけは世界が違う。東京本社からの指示は、「この展覧会に絡めて、伝統ある英国風景画についてなにか(!)書け」というものだったような記憶がある。頼んでくる方も、ずいぶん向こう見ずだなぁというのが第一印象だった。しかし、それよりも本社には「美術百般」のプロである円城寺次郎社長(故人)がいる。もちろん、この展覧会の企画者である。それが最大にひっかかった点だ。

出展絵画を選ぶために英国側主宰者のブリティッシュ・カウンシルと交渉する場に同席して同氏の要求水準の厳しさを見ていたこともあって、恐怖感が私を襲う。円城寺氏が後年、新聞社の社長としては稀有の「芸術選奨」を受賞したことを考えてもらえば、私の狼狽ぶりがわかってもらえるだろう。本来なら本社の絵画担当記者がサッと飛んできて書いてくれる題材だろうに、とグチが出た。

仕方なく、ブリティッシュ・カウンシルに助けを求めた末、標的を英国風景画の巨匠の一人であるコンスタブルの「デダムの水車場」なる作品に定めた。

理由はきわめて簡単。コンスタブルの書いた1820年と同じ風景がそのままに現存している(らしい)というのが唯一にして最強、当て込みの動機になった。もし、それが本当なら当時開発が急ピッチで進んでいた東海道メガロポリスの真ん中に広重描く「東海道五十三次」(1833年)の景色があることに通じる話だ。シロウトはシロウトなりに、わかりやすい理由を考えついたものだ。

それというのも、ロンドンの自宅の周りの風景そっくりの絵を美術館でみていたという下地があった。美術館に行くと、自宅の周りの風景を書いた絵が展示されたりしているのにおどろいたものだ。

そのことが思いつきの素地になったのは事実だが、「本当にそっくりの絵でした」というだけでは200行近いスペースは埋まらないし、曲もなさすぎる。仕方なく、トラファルガー広場の近くの古本屋街でコンスタブルの日記を発見。記事にハクをつけるため、この巨匠の片言隻句を借りたりして、なんとかまとめたのが冒頭にあげた記事である。恐怖の源であった円城寺社長からは何も言ってこなかった。大過なかったのか、読んでくれなかったか、どちらかだろう。

●そっくりの現場を探したが…

だが、実を言うと、ロンドンの東北東、約100キロにあるこの絵の〝現場〟で写真を撮ってきて、絵と並べて「ほら、この通り。そっくりでしょう」と書くつもりだったのだが、「そっくり」ではなかったのだ。絵の中にある水車場は、既に取り壊されていて、代わりに背の高い工場が建っている。おかげで、絵の中の遠景にある教会の姿も隠れてしまっている。それに、樹の伸び方、葉の茂り方だって当然に「絵」と違う。「200年後」なら、当たり前の話なのだが、それでも未練がましく、どの地点に立つと巨匠と同じ構図が発見できるのか。あちらこちらと首をぐるぐる回しながら、両手の親指と人差し指で額縁に見立てて懸命に探すこと数時間。だが、巨匠が立ったであろう場所さえ見当たらなかった。

結局は、絵の中央を流れているスタウア川を探索した結果、これまた名作の「スタウア川の水門から見た水車場」などの舞台になった「そっくり」の場所を発見。コンスタブルの父親が経営していた水車場とその隣にあるロット氏所有のコテージにもたどり着き、まさに「そっくり」ということにはなった。ちなみにロット「氏」といっても17世紀の人、水車場は18世紀のものであった。

コンスタブルの父親が窮地を救ってくれたことに「感謝!」というところだが、かんじんの記事にはせっかく苦労した「そっくり」の写真も絵もついていない。スペースの関係で私のほうから写真抜きの原稿にしたのか、本社がボツにしたのか記憶にない。いま手元に残っている10数枚の写真を見ても、「そっくり」のものは残っていない…。

もっとも、妻は「たしかに似たような写真があった。あなたはもう一本、その写真つきで記事を送ったのよ」というが、当時の縮刷版を調べてもそれらしい記事は発見できなかった。それもそのはず、実はこの「そっくり」の絵の方は日本での展覧会には出展されていなかったのだ。

というだけの話だが、この取材を通じて、絵の題材になった自然をそのままに保存しようとする英国のナショナル・トラストの真剣で粘り強い活動や、その背後にある「英国人かたぎ」をいやというほど知らされた。私を救ってくれたこの水車場だって、荒れ放題だったのをナショナル・トラストが1943年に買い上げて1万7000ポンド(取材当時の円換算で1500万円弱)を投じて再建したのだと聞いた。この時期は、ロンドンがナチドイツ空軍の大爆撃を受けていたころなのだから、恐れ入る話ではある。

そして、こうした「異種体験」の後遺症は、意外に尾を引くものらしい。美術への無知はその後も変わらないが、芸術を大切にしたいという気持ちだけは根強く残った。1981─83年に、アメリカ総局長としてニューヨークに勤務していたときには、メトロポリタン美術館に日本の古美術品の常設展示場(ジャパン・ギャラリー)を創設するための発起人の一人になって募金の趣意書を書いたり、日経の紙面にこれまた協賛のための記事を書くこともやった。いわば、芸術への関心を発生させる触媒が「あのとき」にあったのだろう。このギャラリーが完成したとき招かれて、日本から飛んでいった。テープカットの写真には、ブラックタイ姿の私が端のほうに、しかし、ちゃんと写っている。

みやち・そうしち会員  1931年生まれ、55年日本経済新聞社入社、ロンドン特派員、経済部次長、経済解説部長産業部長 北米総局長などを経て論説副主幹、89年テレビ東京取締役解説委員長、95年退任。
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