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ムバラク大統領単独会見余録(高木 規矩郎)2011年3月

中国が天安門事件や東欧民主化革命でソ連崩壊の口火を切った激動の時代黎明期の1988年12月25日、私たち「読売新聞取材団」は、エジプトのホスニ・ムバラク大統領と単独会見を行った。読売新聞中東総局長として赴任して以来の夢でもあった。人脈をフルに使い、大統領側近の閣僚や要人にも親しくなって外堀を埋める3年がかりの準備。さらには紙面確保のかけひきのために東京から読売幹部に来てもらって、急遽、取材団を編成するなど記者人生を賭けた挑戦であった。


≪ムバラク会見最後の9日間の追い込み≫

9日前、プレスセンターからの照会で飯沼健真・外報部長の到着を考え、会見日時を24~30日としたものの相変わらず実現のメドは流動的だった。カイロに住む岡本秀樹・空手指導者に大統領側近の経済顧問に、もうひと押ししてくれと依頼した。日本レストランを経営する日本人からは元首相に会見の意向を伝えてあるとの嬉しい知らせが入った。すべて全開で動き出している。うまくかみ合ってくれればと祈る気持ちだった。


8日前、大統領直轄機関国家情報本部の議長から読売支局に電話があり、東西冷戦終焉の時期に世界各国から大統領会見の申し込みが殺到しているが、これまでのいきさつを考えて日本からは読売を推薦するといってきた。会見にどうやら芽が出てきたようだ。20日から22日までの間になりそうだが、部長が来るのを待っていては物理的に難しいので、君が代表でやれないかともいう。欧米の大新聞との共同会見だという印象を受けて、本社に連絡するとそれでは新年紙面は難しいとがっかりした口調だった。


7日前、議長事務所へ再度電話し確認したところ、共同会見ではなく単独会見との返事でほっとした。何とか日時を先に延ばしてもらうよう出来るだけの働きかけをすれば新年掲載も復活する。部長はとにかく21日に成田を出るといってきた。下手に動いて芽をつぶさないように配慮することだ。あとは会見実現のために接触した政府要人を動員しての「新年掲載作戦」である。


5日前、時計を見るとすでに正午。部長と記者の斎藤小百合はすでに飛行機に乗っているはず。こうなったら後戻りはできない。猪突猛進あるのみである。翌日早朝、部長ら2人、日航でカイロ着。夜、日本大使館で忘年会があり、こちらの動きを探られないように夫婦で出席した。そのあと日本レストランへ行った。日本人店主には要人を紹介してもらったので、とにかく部長にお礼を言ってもらった。


部長が着いてからすでに三日たつ。会見についての感触はいいとは言っても決定的な動きはない。神経をすり減らす。夕方、大統領府から「明日午前9時45分に大統領官邸にきてほしい」との連絡があり、さっそくホテルの部長に知らせた。夜は他社の特派員の送別会。カモフラージュのために一次会、二次会とつきあった。幸いどこの社も読売の潜行に気づいている気配はなかった。


会見前夜はめずらしく大雨だった。夜明け間際の強風の音にも驚かされた。大統領官邸に向かう途中、道路の冠水で車が動かなくなる心配もあり、午前9時半まで来るようにとの指示だったが、十分なゆとりを考えて8時に支局を出た。会見は3人と指定されていたのだが、せっかく東京から来た記者に何もしてもらわないというのは気になるので、支局員も含め4人で乗り付けた。当たって砕けろだ。OKだった。1時間近く待たされて大統領の部屋に案内された。1時間の会見だった。緊張のあと外に出ると青空が広がり雲間から陽がのぞいていた。部長を除く3人で原稿をかき分け即日処理した。妻はみんなに特性のエビ天丼を作ってきた。エジプト産ビールにマッチして最高にうまかった。


翌日、最後までこだわっていた新年掲載計画は、とにかく紙面のとれるうちに一刻も早く載せたほうがいいという東京の編集総務の判断で27日付けに変更になった。このころ天皇陛下のご病状から元日紙面が確実にとれるという保証がないことも判断材料の一つとなっていた。


≪東西対立の終焉を前に≫


ムバラク大統領の会見が実現したのは、東西世界の緊張緩和が本格化してきた時期だった。中東でも当時のレーガン米政権がパレスチナ解放機構(PLO)と対話開始を決定するなど新たな動きが芽生え、PLOはエジプト、ヨルダンなどアラブ穏健派の支持をバックにイスラエル包囲網を強化する構えを見せていた。中東和平にとってもアメリカだけでなく、ソ連の存在が不可欠なものになっていた。



アメリカ、エジプト、イスラエル三国のキャンプデービッド合意をさらに発展させ、米ソを含む国際会議の網をかけて和平の枠組みが崩れることを阻止しようという和平戦略が、大統領発言の根幹をなしていた。イラン・イラク、アフガニスタン、朝鮮半島などで「デタントⅡ」ともいえる新しい和解と協調の関係を反映して動いたように、大統領は中東和平にもデタント体制を持ち込もうとしていた。1981年にサダト大統領がイスラム過激派によって暗殺されたあと大統領に就任、周辺アラブ諸国、イスラエル、米ソ緊張の下で微妙なバランスを保って、「仲介者」としてアラブ世界での発言力を高めてきた。アラブの盟主としてのエジプトの自信と現実路線を代弁していた。


会見会場のカイロ郊外ヘリオポリスにある大統領官邸は、美しいアラベスク(唐草模様)で縁取られた建物だった。執務室で始まった会見冒頭で、「国家を安定させ、国民生活を最善のものにすることが私の最終目標。そのために私は働き続けねばならない」と大統領は抱負を述べた。和平進展は中東和平国際会議実現にかかると指摘、そのためにソ連の積極的役割に期待を表明した。会見に応える大統領は、アラブ大国の元首にふさわしい風格にあふれ自信に満ちて統治の理念を語った。会見から22年が過ぎ去った。今はその顔色は急速に色あせた。独裁色を強めた30年の長期政権の間に国民生活からの離反が進み、異議申し立てにさらされ、抗議デモの嵐の中で政権放棄に追いやられた。


≪二方面包囲作戦≫

3年間に及ぶムバラク大統領との単独会見計画は、大統領府への包囲をせばめていく作戦で実現を目指した。ベイルート特派員時代からの友人岡本とカイロ赴任直後再会し、「いずれ大統領と単独会見をしたい」と話をした。ベイルートではレバノン、シリアの軍事、警察組織だけでなく、パレスチナ・ゲリラ過激派にも空手を教えていた。エジプトに拠点を移してからも政府中枢に人脈を広げていた。


岡本の幅広い活躍を示すのは、当時の副首相兼外相の全面的な支援を取り付けて、エジプト政府の投資で国民のモラル向上をめざす「日本武道センター」の完成にこぎつけたことである。その過程で私は武道センターにからむ副首相との会見を行い、大統領会見に向けての人脈作りを始めた。強力な取材協力者だったカイロの日本レストラン経営者からは、「エジプトでは単独会見に応ずることが自分にどんなに有利なことかを、大統領に認識させる戦略でやっていかないとなかなか動かない。いくら頭を下げてお願いしても駄目だ」と具体的なノウハウを教えてもらった。


≪不法出稼ぎ労働者狩りに巻き込まれて≫

大統領会見の4か月前の1988年9月3日のことだった。支局の運転手が息せき切って駆け込んできた。食料品を買いに出た妻がパスポートを持っていなかったので、メイド(外国人不法労働者)狩りに巻き込まれて連行されたという。部屋で探したが見つからないので、とにかく私の記者証とパスポートを持ってマイクロバスを追いかけた。顔見知りの駐在員の妻やアジア系らしい女性数人とともに車に乗せられていた。エジプト人係官にいくら説明してもらちがあかない。あきらめて支局に戻り妻のパスポートを探し出して再び追いかけ、2時間後にやっと妻の身柄を取り戻した。


政府の招請でカイロに滞在中の冶金専門家ら男性2人も巻き込まれていた。外交問題にもなりかねない事件なので、さっそく裏付け取材を始めた。翌日、警察署長から陳謝の電話があった。日本人会でも緊急協議をして連行騒ぎについて抗議文をエジプト政府に提出することになった。親しい日本人外交官に頼み、外国人労働者問題などを管理するトップ機関の議長に会うアポをとってもらった。表面は日本人連行の真相を聞くことだったが、私にとっては別の狙いがあった。大統領直属機関で側近中の側近に単独会見実現のために工作を働きかけるチャンスが転がり込んできたのだ。事務所で初めて会ったとき議長からは「あなたの会見に関する資料が5センチの高さになっているよ」といわれた。こうして会見工作がフル回転で動き出した。


12月末になって会見の可能性が強まって来ると、さまざまなルートを使って実現に向けて奔走した。岡本は官房長官につながるルート、日本レストラン経営者は元首相のルート、それに議長には妻の“犠牲”によって直接のルートが切り開かれた。それぞれのルートから「会見間近」の肯定的な反応が寄せられた。25日の大統領会見に同席していたところを見ると、議長ルートの開発が最後の決め手になったのかもしれない。


≪イスラエルも巻き込んだ連続首脳会見実現へ≫


写真=ムバラク大統領と会見する著者(左端)=筆者提供


1989年1月1日、私は早朝の朝日が機内にいっぱいに広がるエアサイナイ機でカイロからテルアビブに飛んだ。カイロでの会見でムバラク大統領が中東和平国際会議の開催を提案したのを受けて、イスラエル側の反応を得たいと思った。そこでイスラエル首相府にイツハク・シャミル首相との会見を申し入れた。ムバラク大統領に一方的に発言させていいのか、多少挑発の意味も込めてファックスを送ったところ、2日ほどおいて予想外の会見受け入れの回答が在カイロ・イスラエル大使館から入った。部長はまだカイロに残っていたので、同じ顔ぶれの取材団を再現させた。先発隊を先にエルサレムに送り、私は後から追いかけ、2日の会見に臨んだ。記憶に鮮烈に残る年末、そして新年だった。



大統領会見そのものは東西世界で何度となく繰り返されており、別に目新しいことではないだろう。でも個人的な人脈を広げ、目標の大統領包囲網をせばめていく新聞記者の基本的手法で会見に臨めたのは、貴重な体験であった。その間チャンスが到来すれば、どんなに些細なものでも見逃さない。3年間にわたる体験を積み重ねて実現にこぎつけたことは、私にとって特別な意味があった。岡本、外交官、本社の飯沼と斎藤、後方支援してくれた私の前任、後任のカイロ支局長と会見にかかわった仲間の多くが若くして鬼籍に入った。そしてムバラク大統領自身が退陣した。20世紀末のエジプト・イスラエル連続首脳会見のドラマを語り伝えられるのは私だけとなった。


(元読売新聞カイロ支局長 2011年3月記)

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