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私が会った若き日の藤本敏夫さん(前田 明)2011年2月

元全学連委員長  闘争とロマンとふたつの顔

40余年前のこと。なぜか背に鋭い視線を感じながら山の手の瀟洒な住宅街を歩いていた。行く先はかつての宰相、山本権兵衛の孫娘、山本満喜子さん宅だ。

彼女はフィデル・カストロ・キューバ首相と日本人で一番、親交が深いといわれ、彼女の著書『炎の女性たち』(読売新聞社刊)の中で、宇都宮徳馬氏も「最も尊敬する女傑」と記している。

招き入れられ、まず目に入ったのは、無造作に首から白い布を掛け悠然と仲間に髪をカットしてもらっている、元反帝系全学連委員長だった。山本さんとカストロの話をしていると散髪を終えた彼も加わる。

目を輝かしてキューバヘの砂糖キビ刈り計画について、なんら躊躇することなく説明してくれる。二人は私が警視庁7社会の担当なのは十分知っているはず。波乱万丈の生活を送っているだけに強さを感じた。かなり長時間、楽しく過ごした。

当時は70年安保闘争が収束に向かい赤軍派の結成が耳目を集めていた。当局は彼を一時、同派のメンバーでは、とみていたようだ。

キューバは主要産業の砂糖キビ取り入れのため、各国に支援を要請。

山本さんが所長の日本キューバ文化交流研究所を介して30人を募集していたとも。当局はそこに彼(同所事務局長)が入り込み、同派の国際連帯活動に動くのではないかと警戒した。それ故か、私が山本さん宅にうかがったことも知っていた。

もう一つ印象に残っているのは、多くの闘争のうちでも力を入れた68年10月の国際反戦デーだ。

ブント系は他セクトとは異なり防衛庁を目指した。神田カルチェラタンなど歴戦の赤ヘル集団だが、同庁の警備は万全。夕闇迫る頃、彼と現場で会った。打つ手もなくついに、幹部の一人が門を乗り越えようと試みる。内側は警官が待ち受けている。「無茶はやめたら」と言うと「言っても止まらない」と。幹部は内側から再び戻って来ることはなかった。二人とも言葉もなく、じっと正門を眺めるだけだった。目が少し潤んでいるようにも見えた。そして大量の検挙に。勝ち目のない闘いに何を思っただろうか。彼の見せた二つの顔は忘れられない。

同志社大の新聞学科に入った彼、流れが違えば、私と同じ道を歩んだかもしれなかった。記者会見も演説も聞いた。セクト主義、教条主義になりがちな中で、端々に人間味を感じ、他の幹部とは違う関心を持つようになった。

後日、逮捕状が出た。皮肉にも原稿は私が。見出しは大きかった。 受刑中に著名なシャンソン歌手と結婚、学生運動を離れ、食と農を考える生活に。取材対象から雄飛してしまったが、気になる存在だった。まだ聞いてみたいことはあった。

彼、藤本敏夫は2002年死去。享年58。少し急ぎ過ぎだ。彼への評伝等は様々だ。

「日米反革命軍事同盟の強化粉砕」などは実現しなかったが、もう一つのロマンは、鴨川の自然王国で少しは実践できたのでは。

余談だが、彼と同学の友人が「NHKの紅白に付き人的に行ったら、大道具のアルバイトに日大闘争の秋田明大君がいて再会した」と話してくれた。多分本当だろう。

人の輪をそれとなく広げるリーダーの要件も持ち合わせていた。

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