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ソ連崩壊20年に思う(斎藤 勉)2011年2月

チェルノブイリ原発事故からちょうど1年目の1987年4月26日。特派員として初めて降り立ったモスクワは、まだ薄ら寒い空気の中で饐えたガソリンの臭いが鼻を突いた。ゴルバチョフ政権下でペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)はまだ緒に就いたばかりで、街には荒涼たる風景が広がっていた。あちこちの国営店に食料や日用品を求める長い行列ができ、地下鉄の駅頭などには物乞いがたむろし、凍てつく夜の路上では安ウオツカの瓶を手に男が行き倒れていた。冷戦下で米国と覇を競い合っていた「超大国」の、それが現実の姿だった。

 

モスクワ初原稿は、街に「青い鳥」という名の「西側風」喫茶店ができたというニュースだった。その短い記事を支局の歴代先輩特派員が使い古してきた旧式のシーメンス製テレックスで、重いキーをたたいて東京に送った。当時はソ連の厳格な情報統制で支局にはコピー器すら置けなかった。だが、改革は次第に成果を生み出していく。経済の一定の自由化でコーペラチブ(組合方式)の非官製カフェやレストランが雨後の筍のように現れた。ゴルバチョフソ連共産党書記長(のちにソ連大統領)は国内各地に飛んで市民対話を繰り返し、対外的には「新思考外交」を掲げて東西を問わず世界狭しと飛び回り、私は30数回もの海外同行取材などに忙殺された。

 

ソ連と世界の風通しが格段によくなったように見えた。度重なる米ソ核軍縮交渉、「プラハの春」を戦車で押し潰したソ連・ワルシャワ条約軍によるチェコスロバキア侵攻(1968年8月)を正当化した「ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)」の取り下げ、ソ連軍のアフガニスタン撤退…。ただ、クレムリンを源とする民主化の波頭がやがて、ソ連自体をも地図から消し去ってしまう怒涛となってソ連・東欧圏を席巻することになろうとは、全く想像外のことだった。怒涛は、千年の歴史で民主主義を知らないソ連よりも一足先に、東欧諸国の共産党を土台から崩し始めた。1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊。東欧共産主義をなぎ倒した民主化の高波はブーメランとなってクレムリンに襲い掛かり、ついに1991年、共産主義の総本山をも呑みこんでしまった。

 

20年前、世界を震撼させたソ連帝国解体への数々のドラマ。その現場に立ち会った記憶の糸を改めて手繰り寄せてみた。

 

 

◆ 「戦争がおうちにくるよ」 ◆

 

1991年8月19日。熱帯夜のモスクワ。市中心部をぐるりと巡るサドーボ環状線を何両もの戦車が、わが物顔で疾走していた。環状線に面したアパートで、その轟音に驚いた当時4歳の息子が思わずつぶやいた。「戦争がおうちにくるよ」。ゴルバチョフ大統領をクリミア半島の別荘に監禁、一時失脚させたヤナーエフ副大統領、クリュチコフ国家保安委員会(KGB)議長らを首謀者とするソ連共産党守旧派(左翼強硬派)によるクーデターの初夜だった。翌20日夜、息子の言葉は現実となった。「外国人ゲットー」と呼ばれたわがアパートの周囲に青空駐車していた各国外交官や特派員の車に一両の戦車が猛り狂ったように体当たりし始めたのだ。時ならぬ喧騒にわれわれ住人は一斉に表に飛び出した。戦車から顔を突き出した若い兵士が顔を紅潮させながら機械的に次々と車を破壊していた。「止めろ!」「誰の指令だ!」「ファシストは帰れ!」…。住民から抗議の怒号が噴出した。その時である。共産党独裁・恐怖政治のシンボルである巨大秘密警察KGBの指し回し者といわれ、外国人ゲットーの監視役だったアパートの警備員数人が兵士に向かって「あんたたち、何をするんだ」と食ってかかり、戦車の前に両手を広げて立ち塞がったのである。この約2年半前、中国・北京で起きた「天安門事件」で、天安門広場脇の道路を列をなして弾圧にやってきた戦車の前に、若者がたった一人で立ちはだかった、あの光景が咄嗟に思い浮かんだ。押し問答数十分。警備員の剣幕に根負けしたか、戦車は狼藉三昧を尽くしてすごすごと踵を返していった。

 

初めて目撃する権力側内部の衝突と亀裂に私はクーデターの失敗とソ連帝国の崩壊近し、を確信した。案の定、守旧派の謀反は文字通りの三日天下に終わった。のちにロシア大統領となる一方の改革の旗手、エリツィン氏は反クーデター弾圧に出動しながら市民に銃砲を向けなかった戦車にまたがって「クーデター制圧」の雄叫びをあげた。周辺の戦車には市民らがカーネーションの花束を置き、クーデター粉砕を祝福した。20年後の2011年1月、奇しくも全く同じような光景がアフリカで見られた。チュニジアの独裁政権を葬った「ジャスミン革命」である。これに触発されて、エジプトが騒乱状態だ。果たして、ソ連崩壊20年という節目に、チュニジア革命がアラブ世界の強権政権を「崩壊のドミノ」に導く「アラブ世界のベルリンの壁崩壊」になるのだろうか。

 

 

◆ KGB解体の現場に8時間立ち尽くした ◆

 

それは“熱く長い夜“だった。守旧派のクーデターが挫折して3日目の8月22日。ソ連崩壊を挟んで5年3か月に及んだ私の最初のモスクワ特派員時代の数々の激動を凝縮したような一夜となった。

 

ソ連共産党の情報源から「(KGB本部のある)ジェルジンスキー広場(通商ルビヤンカ)がただならぬ騒ぎとなっている」と電話があったのは午後4時ごろ。カメラ片手に押っ取り刀で現場に駆け付けると、すでに広場をいっぱいに埋めた市民で空気はどよめいていた。国民の憎悪の最大の的だった秘密警察の創始者、ジェルジンスキー像を引き倒してしまおうという驚くべき計画が実行に移されようとしていた。KGBは「国家の中の国家」といわれ、ソ連の体制悪の象徴だった。のちにモスクワ市長となるポポフ氏やロシア国務長官になるブルブリスら改革派のリーダーたちが歓声と怒号の中で陣頭指揮をとっていた。クーデターをやっつけた直後の「それいけー!」という民衆の迸り出るような熱気が現場を支配していた。国民弾圧の象徴、「恐怖」の代名詞だった広場は手がつけられない「解放区」と化した。若者が銅像に次々とよじ登っては「親・親類の仇」とばかりジェルジンスキー像の頭をポカポカぶんなぐる。顔や首、体に縄を巻きつけたり、台座にペンキを塗りたくったりして、極度の興奮状態が続いた。最初は銅像を台座ごと地上に引きずり倒す算段だった。だが、地下に地下鉄が走っていて危険だと判断され、結局、クレーンで吊り上げることになった。これからがひどく難航した。ソ連製クレーンでは馬力が弱くて容易には持ち上がらない。数時間の格闘のあと、ついにはアメリカ大使館から強力なクレーン車を調達してきて、日付が変わろうとする深夜になってやっと、ジェルジンスキー像は高々と吊りあげられ、大きなトラックの荷台に横たえられた。若者たちがどっとその荷台に飛び乗って銅像を蹴りあげたり、ツバを吐きかけたり…。撤去作業が完了したその瞬間、「ドーーーッ」という地鳴りのような大歓声と大拍手が湧き上がった。私も無意識的に、周りのロシア人たちと手を取り合い、肩を組み合っていた。歴史が目の前で躍っていた。

 

撤去作業が終わった直後、壮大なスペクタクルを見るように、モスクワの夜空には何発もの花火が打ち上げられた。私の生涯で最も美しい、感動的な花火だった。それは新生ロシアの到来を世界に告げる狼煙のようにも映った。普段の夜はポツ、ポツと不気味な明かりを灯していたKG本部ビルは、この晩、一点の光もなく、職員が真っ暗な建物のあちこちでカーテンに隠れるように、恐る恐る窓外のドラマを見守っていたのが印象的だった。

 

開幕から終幕まで、私は約8時間にも及んだこの世紀のドラマの一部始終を目撃した。それこそ生理的要求も忘れ、「モスクワの民衆がKGB解体を開始」という朝刊最終版に突っ込むべき原稿も東京の外信部に任せて、「この現場は絶対離れまい」と腹をくくった。ベルリンの壁崩壊にも匹敵する20世紀の歴史的現場を見損なったらモスクワ特派員になった意味はない。ドラマの途中、不覚にも熱いものが何度もこみあげ、霞むファインダー越しに夢中でシャッターを切り続けた。23日未明になって支局に戻った私は、この感動を思う存分、夕刊用原稿にぶつけた。

 

翌8月24日、返す刀でソ連共産党も解体された。これを契機にバルト三国をはじめ、ソ連の各共和国は雪崩を打って独立宣言へと走り、年末にはソビエト社会主義共和国連邦そのものが消滅する。

 

 

◆ 「ソ連消滅」原稿に戸惑ったミンスクの夜 ◆

 

手元に懐かしい思い出が詰まったロシア語の声明文がある。シミで薄汚れ、しわくちゃになった紙切れ一枚だけの声明の冒頭に、当時、疑心暗鬼から自分で何回もアンダーラインを引いたこんな文章が躍っている。

 

「ソ連邦は地政学的実体としてその存在を停止する…」

 

1991 年12月8日。ポーランド国境に近いベラルーシ(白ロシア)西部の豪壮な公用別荘「ベロベーシの森」に、エリツィン大統領はじめロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラブ3首脳が集まった会議の合意文書、実質的な「ソ連消滅、独立国家共同体創設」宣言である。私はその直前まで独立運動に燃えるウクライナ国内をリボフ、ドンバス、首都キエフの順で取材に駆け回っていた。そして、ベロベーシの森会談の前日にベラルーシの首都ミンスクのホテルに滑り込んだ。この会談はモスクワ特派員仲間ではそれほど劇的な結論は出まい、との観測が強く、案の定、現場に来たのは日本人記者を含めて外国人特派員は10数人だけだった。それも、ベラルーシ外務省はわれわれをミンスクで厳重に足止めしたため、記者仲間は会談の結果がでるまで、どうでもいい会見やミンスクの市内見物などで時間をつぶしていた。

 

会談は夜まで続き、やっと深夜に外務省で合意文書は発表された。私は係官から文書のコピーをひったくるようにしてタクシーに乗り込み、ホテルまでの車中で薄暗い電気にかざして読み始めた。最初の一行にぶったまげた。「ソ連は:存在を停止:」。「存在」「停止」。口の中で何度もつぶやいてみて、思わず、「これは、どえらいことになった」と鳥肌が立った。ホテルに着くや、意味はわかっているはずなのに、念を入れてこの文章に出てくる主要単語すべてをもう一度、辞書でしらべた。「やっぱり間違いない。ソ連は消滅したんだなぁー」。冷めたコーヒーを一気に喉に流し込むと、思わずフーッと大きなため息が出た。

 

さて、夕刊をどうやってやっつけてやろうかと、股引に手拭い鉢巻き姿でコンテを練っていると、私の部屋にA紙のS特派員が顔を出し、「斎藤さん、これで本当にソ連がなくなっちゃうということなんでしょうかねー」とキツネにつままれたような表情だった。「でも、スラブ3国首脳だけでソ連がつぶせるのか」「法的には有効なのかどうか」。しばし二人でそんな議論をして、原稿に取りかかった。

 

ひとつ厄介だったのは「独立国家共同体」の日本語訳。原文のロシア語は英語の「コモンウェルス」に当たる「サドゥルージェストバ」という言葉で、「友好」「協力」「協会」「共同体」などの意味があるが、適訳がどうも見つからない。「ソ連」にしても、本来は「ソビエト社会主義共和国同盟」が正しい訳で「連邦」は誤訳である。はて、どうしたものか、などと迷ったあげく、夕刊早版では「独立国家連合」と送ってしまった。その後、外信部で「共同体」に決めたと聞いた。大ニュースで東京とミンスク間の国際電話回線はパンク状態。ホテルの部屋の電話を東京とつなぎっぱなしにして、興奮し、混乱した頭で百行以上の一面用大型解説記事を勧進帳で送るハメになってしまった。窓外には粉雪が舞い続けていた。

 

 

◆ ソ連から新生ロシアへ―35秒間のドラマ ◆

 

ベロベーシの森会談から17日後の12月25日、クリスマスの夜7時半。クレムリンのソ連閣僚会議(政府)ビルの屋根のドームに突然、2人の作業員のシルエットが浮かび上がった。二つの影はスルスルっとドームの上に駆け上がると、ポールから素早く槌と鎌の赤いソ連国旗を引き降ろし、代わりに白青赤の新生ロシア国旗を掲げて消えた。見事な早業で、ソ連消滅から新生ロシアへの移行劇はわずか35秒間の瞬間ドラマだった。

 

モスクワの真冬の夜空をバックにした墨絵のような幻想的な光景を、私は家族と応援に来てくれていた同僚特派員らと一緒に赤の広場のレーニン廟わきから見上げていた。広場はこの夜、人影もまばらで、この歴史的な瞬間を目撃した日本人は、ラッキーにもわれわれ「産経軍団」だけだった。この夜7時からゴルバチョフ大統領がテレビで「私は不安を残して去る」とお別れ演説を行ったが、その最中に「まもなく、クレムリンのソ連国旗が降ろされる」との情報が支局に入り、大あわてで演説原稿を東京にたたき込んで赤の広場へ急行したのだった。

 

この数日後、フラリと支局に現われた旧知の雑誌編集者は、自ら「自分はソ連共産の幹部党員だった」と私に初めて明かし、「ソ連共産党は表向き、マルクス・レーニン主義で結び付いた同志の集団といわれたが、その実、出世へのヒエラルヒーにすぎなかったのだ」と告白した。革命で階級を廃止したはずのプロレタリア国家は、西側などよりはるかに苛烈な階級・競争社会だったのだ。モスクワ特派員生活ですでに肌身に感じていたことではあるが、幹部党員から直接聞かされた感慨はまた特別のものがあった。その夜、この幹部党員殿とウオツカを酌み交わしたが、彼は足腰が立たないほど酔った。アルコールでこれほど潰れる彼を見るのは初めてだった。

 

 

◆ 熱病にうなされたような5年3か月 ◆

 

冷戦時代、西側諸国のモスクワ特派員には暗黙の不文律があった。ずばり、「ソ連には特ダネはない」。私も先輩特派員から「ソ連当局が西側に流す第一次情報は、ソ連の国益だけを利する狡猾な政治的からくりが潜んでいるディスインフォメーション(故意に流すニセ情報)だ」と厳しく釘を刺されていた。とりわけクレムリンに真っ向からモノを言う姿勢を貫いてきた産経新聞はソ連当局から「札付きの反ソ新聞」のレッテルを貼られ、煙たがられていた。産経の信頼失墜を狙って、どんな罠が仕掛けられるかもしれぬ。歴代の先輩特派員の対ソ警戒心はひときわ強かった。KGBの不断の監視の中で、もたらされる情報の真偽を慎重に見極め、共産党機関紙「プラウダ(真実)」など必読紙の行間を日々懸命に読み取り、オブラートに包んで報道するという綱渡りを強いられてきた。

 

しかし、ゴルバチョフ政権下のペレストロイカ(立て直し)、グラスノスチ(情報公開)の深化、KGBへの恐怖感の薄らぎ、そして、何よりも報道すべき日々の情報量の急増はそんな不文律にとらわれてばかりいられないほど、急ピッチでモスクワ特派員の仕事の質を激変させていった。ソ連のマスメディア自体もそれまで70年近い言論弾圧の欝憤を晴らすように、百家争鳴の様相を呈していた。情報の洪水の中で、ソ連と西側の記者、西側の記者同士による特ダネ競争が始まっていたのだ。87年春に赴任以来、KGBの産経に対する嫌がらせは続いてはいた。紙面で「反ゴルバチョフ」「反改革」勢力に対する批判を書くと、数日後、支局前に停めてあった私の車のタイヤが4つ同時にパンクさせられたりしていた。しかし、そんな恐怖心より、自由な言論活動ができることへのときめきの方が勝っていたように思う。ラッキーにも、「ソ連、共産党独裁を放棄へ」(1990年2月3日付)をスクープでき、1990年度の新聞協会賞をいただけたのも、新しい時代が後押ししてくれた賜物だったというほかない。

 

「20世紀最大の実験」といわれた共産主義。その総本山のソ連の崩壊と新生ロシアの誕生という激動に立ち会う機会に恵まれた私の最初のモスクワ特派員生活は、熱病にうなされ続けたような緊張と興奮の5年3か月だった。歴史が目の前で日々、躍っていた。「あの時代」は私の新聞記者としての「大学」であり、「青春」であった。

 

 

◆ 「ソ連崩壊10年を行く」から「イデオロギーなきソ連」まで ◆

 

2000年3月、私は再びモスクワの取材現場に戻った。KGB出身のプーチン政権登場直前の赴任だった。新生ロシアは約10年経ち、プーチン政権発足で外交官や特派員への盗聴が再開されたとみられたが、言論と国内移動は基本的に自由化が進み、住居も当局指定の「外国人ゲットー」に住む必要はなくなった。テレックス、ファクスは送稿手段としては必要なくなった。寿司バーもあちこちにお目見えして日本人にとって食生活は格段に楽になっていた。この年、私はプーチン氏がエリツィン時代に大混迷に陥ったロシアを引き締めにかかり、「大国再興」への野望をあらわにしていく過程を追う傍ら、プーチン大統領が内心尊崇しているとされるスターリンの実像を炙り出す『スターリン秘録』(扶桑社文庫)の新聞連載を年末まで続けた。年が明けるや、リトアニア行きの列車に飛び乗った。「ソ連崩壊10年を行く」の連載を書くためだ。レーニンとスターリンの生地、クリミア半島のクーデターの現場、ソ連を葬り去る原因となったバルト三国やカフカス、中央アジアなどの民族独立運動、民族紛争の現場等へ、断続的に一年間の旅を続けた。そのルポは逐一、紙面化され、『日露外交』(角川書店)として上梓することができた。

 

そして、ソ連崩壊から20年の今年、2011年。私流にいえば、ロシアは「共産主義イデオロギーなきセミソ連」に本卦返りしてしまった。KGB的強権手法と石油価格の高騰による経済再興で「大国」を装い始めてはいるが、ロシア民主化への希望と期待は木端微塵に吹っ飛んでしまった。クレムリンは元KGBと軍、治安機関の巣窟となり、厳しい言論・報道統制の蔭で政権に楯突くジャーナリストの相次ぐ抹殺、知識人の逼塞、政敵の大富豪の恣意的な国外追放や投獄、軍事力の再増強が目立っている。プーチン政権誕生の直前、著名な反体制物理学者、アンドレイ・サハロフ博士のエレーナ・ボンネル夫人はこう予言した。「ネオ(新)スターリニズムがやってくる」と。果たして、その予言は的中したのだ。日本との関係でいえば、北方領土問題でメドベージェフ・プーチン政権は「北方4島はすべてロシア領であり、国際法で確定している」と嘯いて憚らない。メドベージェフ大統領は昨年11月1日、最高指導者としてロシア史上初めて北方領土・国後島に乗り込む蛮行をやってのけた。歴史を臆面もなく改竄する政治手法はスターリン時代、北朝鮮指導部と何ら変わらない。尖閣諸島奪取を狙う中国と手を組み、中国を味方につけて「北方領土不法占拠」をなりふり構わず既成事実化しようとしている。

 

この20年、世界は激変した。ロシアも石油景気で経済的には格段に豊かになり、モスクワは金ピカの街となった。しかし、政治的にはペレストロイカ以前、ひょっとすると、「停滞」が代名詞となっているブレジネフ時代(1964-1982年)へと逆戻りしようとしている。そんな感じがしないでもない。そんな見極めも含めて、産経新聞モスクワ支局では今、二人の後輩特派員が「ソ連崩壊20年」の連載取材に奔走している。

(産経新聞常務取締役 2011年1月記)

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