ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


リレーエッセー「私が会ったあの人」 の記事一覧に戻る

私が会った若き日の 宮城まり子さん(西島 雄造)2011年1月

たくさんの 喜怒哀楽を まとって

追っかけのようなことを、やってきたのかもしれない。それが、40年近くにもなっている。『ねむの木のこどもたちとまり子美術展』やコンサート、学園の節目の催しに運動会…。
ねむの木学園のホームページを開けば、足取りは詳らかだ。理事長にして園長、校長、子どもたちのお母さん。忙し過ぎるこの人の歳月。

1975年の正月。いまの静岡県掛川市に移る前の浜岡時代のこと。夕焼けが闇の海にのみ込まれた後も、彼女は話し続けた。独特のよく通る声。「ねえ、さっき夕食のとき、気がついた? 以前は子どもたちの食器、プラスチックだったの。手が不自由な子は落とすからだけど、それじゃ落としたら壊れることを知らないままじゃない」

子どもたちを引き連れて、デパートでそれぞれ気に入った陶器の食器を買わせた。「それから、落とさなくなったのよ」。思いのたけを聞き終わって、用意された部屋に戻ったら、折り紙の花が枕の上に飾られていた。

絵を描く子どもたち。細密だったり、乗り物が得意だったり、色感の鮮やかさにも驚かされる。園長は描くままに任せている。「だって手取り足取りしたら、個性が育たないじゃない」

理想を追うほどに、運営が大変なことは容易に察しがつく。それでも懲りずに、新しいことをもくろむ。東京の家は、何度となく抵当に入った。74年のつぶやき「いったい、いくつ講演できるか数えてみる。2カ月間に51回」。講演料が園を支える。

展覧会などでの著書や作品集の売り上げも頼りだ。ファンは宮城まり子のサインをもらおうと長い列をつくる。84年の正月、横浜高島屋で24万人を超える入場者の記録をつくった時は、手の甲に注射を打ち続け、食事もせずに終わりのないサインに応えた。

見かねて遅い昼食に誘った。食堂でメニューを見ながら「ねむの木の宮城まり子が、天ぷらそばを食べちゃいけないかしら」と本気で迷っていた。

80年の夏、椎間板ヘルニアの手術で入院。ベッドの上で足を吊ったまま情けない顔をしていた。衆参同時選挙が行われた年だ。複数の党から立候補の薦めがあった。「どう思う」と問われ、「政治家はいくらでもいるが、ねむの木の園長は一人じゃないですか」と答えた。いまも顔を合わせると「約束守っているわよ」と、いたずらっぽく言う。

まり子さんも鉄人ではない。落ち込むこともあるだろう。昔のことだが、たまに夜おそく電話がかかってきた。とりとめのないおしゃべりなのに、声が沈んでいる。

「弱気はダメだよ。死んではダメだよ。でも死ぬときは、僕の特ダネだからね」と、冗談めかして受話器を置くしかない。死をほのめかされたわけでもないし、宮城さんは忘れているだろうが、そんな思いすごしをしたくなるほど、背負った責任は重い。

HPの学園小史は2006年8月を最後に途切れている。その夏、新潟での展覧会で、11日間にこなしたサインは1850回。「からだにこたえる。弱くなった」とつぶやき。たくさんの賞と、たくさんの喜怒哀楽をまとって、明日を見続けるまり子さん。

前へ 2019年12月 次へ
1
7
8
12
13
14
15
16
17
18
19
21
22
23
25
26
27
28
29
30
31
1
2
3
4
ページのTOPへ