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我が生涯の句読点 60年安保と浅沼稲次郎(尾崎 美千生)2010年10月

 茫々半世紀、昭和34年から37年まで早稲田に学んだ私にとって二年生の時に遭遇した「60年安保」は、もはやセピア色の背景に浮かび上がる点滅の中にある。しかし、いま70歳を超えた自分史を振り返るとき、あの時の高揚感はいまなお消し難い青春のひとこまである。敗戦の廃墟の中でカボチャとサツマイモでやっと命をつないだ幼い日々、夜勤のアイスクリームづくりで生活費を稼いだ浪人時代・大学時代の苦学生にとって「アンポ」は貧困のうちに過ごした戦争の思い出とともにある。

◇高知城下の学生運動
  60年安保に先立つ数年前、私は郷里の高知で早熟な学生運動を経験していた。「高校授業料値上げ反対!」を掲げて、県下の高校生を高知城下に集め、県庁にデモをかけた。県教組が全国的にも先鋭的であったことから全国でただ一県、高校入試が行われない「全入制度」で、入学志望者は抽選で三つの県立高校に振り分けられた。そういう土地柄の影響もあったのだろう。高知県の高校生による学生運動が「全高連」の名のもとに過激化し、全国紙に載るようになるのはその数年後のことである。私たちの運動はその走りになったのかもしれない。
 その後、友人二人と家出同然で田舎を飛び出し、東京で浪人生活を送った。 当時、東京北区・赤羽にあった大手乳業会社の工場で夜勤のアルバイトでアイスクリームづくりをした。野村証券での封筒の宛名書きのアルバイトが日給350円のころだから、夜勤500円の手当はありがたかった。
 だが、私の留守中、二人の私服警官が私の消息を探して下宿を訪れたと聞いて驚いた。私みたいな高校学生運動のチンピラ・リーダーを探して2年後までもフォローしていたという事実を知って、わが公安警察の「優秀さ」を思い知らされた。

◇「衆院解散要請書」
  やっと大学に入って政治学の原書講読クラブ「政治学会」に入会する一方、60年安保闘争が始まると国会周辺のデモにも出かけた。革新陣営が掲げた「青年よ、再び銃をとるな!」のスローガンに魅かれ、「安保反対」のシュピレヒコールには東條内閣の商工相であった岸信介氏の復権、日本政治の「逆コース」の象徴としての首相への反感が込められていた。
  岸首相がワシントンで条約改定に調印したのは60年1月19日。6月19日に予定されていたアイゼンハワー米大統領訪日までに批准したい同首相は5月19日夜、衆院本会議で会議延長と条約批准を強行採決。これを機に安保反対は岸首相の政治手法に反対する運動に転換した。東大生・樺美智子さんが警備隊との衝突で亡くなった6月15日のデモにも参加した。樺さんについては、当時参議院議員でそのあと高知市長になった故坂本昭さんから話を聞いたことがある。医師出身の坂本さんは参院医務室に担ぎ込まれた樺さんの最期の瞬間に立ち会ったが「もはや打つ手はなかった」と述懐していた。
 デモには参加したが、実のところ英国の漸進的な社会民主主義に大きな関心を持っていた身にとって、全学連リーダーたちのあまりに急進的な武闘路線にはなじめなかった。私たちは岸内閣の強硬な議事運営に反発し、勝手に「衆院解散要請書」なるものを作って議員諸氏に手渡ししたりした。もちろんそんなものが公的な効果をもつわけではなかったが、民主主義の基本ルールを無視して条約批准を強行しようとする岸内閣の議事運営に学生としての正義感から考えた行動だったろう。
  しかし、岸内閣は日米安保条約を強行可決した責任をとって総辞職。あとを襲って登場した池田勇人内閣の「所得倍増計画」で「安保の季節」は遠ざかり、 日本は「経済大国」の道をひたすら走ることになった。その「経済大国」が いま中国の台頭でその地位を脅かされ、日米安保条約が極東の平和を守る役割から米国の世界戦略の一翼に組み込まれている今日の変化を見るにつけ、「安保は遠くなりにけり」の感慨はひとしおである。

◇浅沼稲次郎氏の高笑い
 60年安保で忘れられないのは、右翼少年・山口二矢〈おとや〉の凶刃に倒れた浅沼稲次郎氏との出会いである。私の脳裏のネガに残っているのは生前のゆったりした“人間機関車”の巨体である。最初にその謦咳に接したのは安保闘争の前哨戦の頃である。「早稲田政治学会」の新米であった私は、賛助会員であった浅沼氏に年会費をいただきに議員会館を訪れた。
 最近、新装なった12階建の新議員会館は「ぜいたくすぎる」など何かと話題を呼んでいるが、当時の会館はまだ木造の平屋建で、黒ずんだ廊下は靴を踏みしめる度に音を立てるような案配であった。議員の姿が少なくガランとした国会周辺の様子を不思議がる私に、浅沼氏は「全学連が議員会館に火をつけるという噂が飛んだので、議員諸公はみな姿を消したらしいよ」と腹を揺すって笑った。いまでも時々浮かび上がってくるその温顔に、やがてテロに襲われるという運命の予兆は微塵もなかった。私の記憶に間違いがなければ、そのとき浅沼氏は「次の選挙は(早稲田のある)新宿(東京一区)でやるから、よろしく頼むよ」と学生の我々にも低姿勢だった。

◇「浅沼殺さる!」
 演習(ゼミ)は服部弁之助教授の「英国政治思想史」をとり、学者であり、英国労働党の党首も務めたハロルド・ラスキの「グラマー・オブ・ポリティクス」を読んだ。ゼミ仲間とはよく校門近くの裏手にあった喫茶店「茶房」(さぼう)に陣取り、議論をした。「茶房」は政治学会でもしばしば現役の政治家を招いて話を聞く「政治道場」にもなっていた。
  ある日、もう夕刻になって件の喫茶店から議論仲間と出てくると、文学部前の路上いっぱいに掲げられた横断幕に「浅沼稲次郎氏殺さる!」と大書された文字が飛び込んできた。いつかの温顔と、「暗殺」という目の前の現実が調整不能のまま、ただ茫然とした一瞬を思い出す。
  誰言うとなく、「弔問に行こう」という声に促されて浅沼氏の自宅に向かった。どういう道をたどったのか、いまは思い出せないが浅沼氏の居所は江東区の安普請のアパートだった。家に近づくと一見労働者風の男の人が寄ってきて、「学生さん、ご苦労さん」とひとこと言ってアパートまで案内してくれた。中には奥さんと女婿の中野紀邦さん(フジテレビ勤務)がもの言わぬ浅沼さんのこんもりと盛りあがった遺体を前に、弔問客に深々と頭を下げていた。
 その後映像で観た学生帽を被った17歳の少年の体ごとぶつかった鋭い一撃と、背中を丸めてドサッと日比谷公会堂の床に崩れ落ちた浅沼さんの姿が半世紀となったいまも脳裏から去らない。中国を訪問して「米帝国主義は日中両国人民の敵」と挨拶して内外に論争を巻き起こした浅沼氏だったが、「ヌマは演説百姓よ」と大衆に親しまれたその人の突然の死に歴史的な喪失感を味わった人々は少なくなかったろう。

◇生涯の句読点
  二年後の新聞社の入社試験では先輩の「支持政党を聞かれたら、(安保改定を推進した)自民党でもなく、(反対闘争の中心となった)社会党でもなく、民社党ぐらいにしておいた方がいいよ」という忠告もあったが、私はデモに参加したことを面接者に告げた。しかし、特別の追及もなく、無事幼い日から憧れていた新聞社に合格した。
 戦争への憎しみとひもじさを原点に新聞記者になった自分にとっても、池田内閣の「所得倍増計画」以来の経済大国への道程は、次第に60年安保の高揚を忘れさせた。佐藤栄作内閣から福田赳夫内閣までの長い政治取材の中で、私の神経は目の前の現実を追うことで摩耗させられたが、若い日々の「60年安保」と浅沼氏との触れ合いはいまもわが生涯の大きな句読点になっている。
                             (元毎日新聞記者 1937年生まれ 2010年10月記)
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