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官邸キャップとして迎えた60年安保(松永 太)2010年8月

 1960年5月19日深夜、会期延長の強行採決に続いて改定安保条約は自民党単独で衆院を通過した。院外を見渡すと、議事堂周辺から桜田門にかけて、投光機の光芒に照らされて無数の赤旗がうねり、海鳴りのようなどよめき、「アンポハンタイッ!」「岸を倒せ!」のシュプレヒコール、「革命前夜とはこんな情景か」と思い込むほど興奮させられる光景であった。
 それから連日、衆院面会所の前の道路はデモ隊で溢れた。顔なじみの各社記者が新聞労連の旗を掲げて通り過ぎてゆく。学生時代お世話になった日高六郎東大教授が私の顔を見つけ、「岸さんに会わせてください」と頼まれた。

◆ ◇

 
  当時、私は首相官邸キャップで30歳を迎えようとしていた。それまで7年間、労農記者としてプロ革新系でもあった。まじめな先生の頼みだが、鉄条網に囲まれた首相官邸にお通しすることは出来ない。
  やがてデモ隊は暴徒化してゆく。国会を取り巻く歩道の敷石は剥がされ、割られて飛び道具に化していた。悲劇は間もなく起こった。安保阻止第18次統一行動日の6月15日夕刻、騒がしい空気が伝わってきたため、官邸から国会南門に駆けつけた。学生の一群が猛然とダッシュし、厳重に締められた門扉を開けてしまった。怒涛のようなデモ隊が中庭になだれ込む。女性が多い先頭スクラムが警官隊と激突した。後ろから押されて何人かが下敷きとなり、負傷者は警官隊に担ぎ出されて芝生に横たえられた。その中で東大生樺美智子さんが亡くなったことを知った。彼女は東大社会学科の先輩樺俊雄中央大教授の娘さんと聞き、非運の父娘を一層気の毒に思った。
 岸内閣はこの事件を国際共産主義に踊らされた全学連の計画的暴挙とし、破壊活動防止法と刑法騒擾罪を適用するという政府声明を発表したが、不発に終わった。冷たい世論が岸首相に思いとどまらせたからだ。

 
◆ ◇

 6月18日、この夜午前零時を過ぎれば改定安保条約は自然承認される。翌19日にはアイゼンハワー米大統領が初の訪日を予定していた。しかし、警備当局は治安に責任が持てなくなり、大統領は断念してすでにマニラから帰米していた。この夜、岸首相は官邸に篭り、弟の佐藤栄作蔵相が付き合った。私達も長い一夜を官邸で共にした。19日午前零時、安保は自然承認となり、岸首相は23日辞意を表明した。
 7月14日、自民党大会で後継に池田勇人総裁が決まり、正午から記念パーティーが官邸中庭で開かれた。中座して邸内に引き返す岸首相が、突然後方から暴漢に尻を刺された。首相を追う私の面前での予期しない事件だった。
  翌年、日本新聞協会の政治記者海外派遣計画に参加して、3か月間、米欧、中東、東南アジアを視察した。井の中の蛙はすっかり洗脳されて帰国したが、若かっただけにこの世界一周で得たものは大きかった。その意味で60年安保は忘れられない。
                              (元東京新聞記者・1930年生まれ 2010年8月記)
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