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アジアの生と死(辻 康吾)2009年12月

 まだ中味が詰まったままの頭蓋骨の重さに思わず取り落としそうになった。河原で野犬に食い荒らされるよりはせめて水葬にと思い川底に沈め手を合わせた。 1971年12月、旧東パキスタンがバングラデシュとしてパキスタンから独立した。独立直後の首都ダッカは荒れ果て、舗装道路の脇の芝生に入るとベンガル人の助手が「地雷がある、戻れ!」と怒鳴った。人々はパキスタン軍の残虐ぶりを外国人の私に必死になって訴えようとしていた。

 まだ散発的に銃声が聞こえるなか、独立派のベンガル人を虐殺したパキスタン軍に協力したビハーリ人が今や裏切者として収容されているキャンプ(キャンプの外では多くのビハーリが殺されたという。このキャンプは四十余年後の今もあるという)を抜け、ガンジス川の河原に行くと、パキスタン軍に抵抗して殺された人々の遺体が散乱していた。肉体はすでに腐乱しながらも着衣は残り、手にノートらしきものを握った死体もある。年齢はすでに判別しがたいが、地元の住民に尋ねるとその多くがダッカ大学の学生だったという。トラックで連行され、ここで射殺されたという。真っ赤な夕陽の中で野犬がばらばらになった肢体を咥えて走っていた。

 ガンジスの河原で多くの死体を目撃した翌日に会見したバングラデシュの初代大統領のムジブル・ラフマンは三年後のクーデターで殺された。またその直前カラチで会見したパキスタンのブット大統領もその後処刑された。1988年に首相となった娘のベナジル・ブットも2007年暗殺されている。隣のインドではインディラ・ガンジー、息子のラジブ・ガンディ両首相が暗殺されている。

 幸いその後の記者生活でこれほど多くの死体を目撃することはなかったが、取材の中でこのアジアでいかに多くの人々が不条理のうちに死んでいったかを改めて知ることになった。その後大学に移り、日本の若者に接することになった。毎年の卒業式後のパーティーでこの話をして「彼らが殺された理由はともかく、あの学生たちは皆さんと同年齢だった。自分たちがいかに恵まれているかをよく考えて欲しい」と語った。華やかな会場が一瞬静まり返り、やがてまた賑やかになる。あの一瞬の静寂をまだ憶えている卒業生がいるだろうか。

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 1979年北京に赴任したが、街の塀やビルには三年前に終結した文革期のスローガンが生々しく残っていた。まだまだ口が重い市民が小声であのビルから誰が跳び下りた、あの学校では教師が殺された、この村では赤ん坊まで殺された、俺の兄貴は紅衛兵になぶり殺しにされたなどなど。殺戮と流血の文革の記憶はまだ新しかった。

 その頃、文革後初めて人口統計が発表された。年度を追ってその数を調べていくと、1959年から61年まで人口の絶対数が大幅に減少している。人民公社に代表される大躍進政策の結果、多くの餓死者がでたことは知っていたのだが、この統計でざっと計算してみると約1300万人が死亡したことになる。その後発表された中国の研究者の推計では2000万人以上、あるいは4000万人以上、最近になって著名な農学者の袁隆平の談話では5000万人が餓死したと言われる。この人類史上最大の餓死事件の死者数がいまだに不明なのは、同じく犠牲者1千万人と言われる文革、あるいは1959年の反右傾闘争などなど中国当局にとって好ましくない多くの史実がひた隠しにされている一例である。これらの悲劇の詳細をあえて追及するものは政治的に圧力を受ける。

 1989年、すでにプレスを離れ教職に就いていた。この年、天安門事件が発生。軍の発砲などで公式には学生、市民ら300人が死んだと発表されたが、この数にも疑問がもたれている。広場で射殺されたとなると一家に累が及ぶので、旅行から帰らないとか、場合によっては死体を市内の空き地に埋めたという話もあった。事件の直後北京に行くと中国の友人たちは文字通りものも言えぬまま呻くように「人民の軍隊が人民に発砲した」とつぶやいていた。それまで知り合ってきた知識人の友人の多くが海外に亡命するか、逮捕されていた。文革以後、80年代の中国はなお貧しかったものの、当時の社会に溢れていた活気はこの事件を契機に完全に失われ、国や民族の前途を真剣に語る声は小さくなり、やがて多くの中国人は拝金主義へと逃避していった。

 事件直後日本でのある公開セミナーで「事件の犠牲者は300人と言われていますが、もっと多いかも知れません。だがたとえ百倍の3万人だとしても文革の数百万、1960年前後に数千万人の餓死者をだした中国の現代史の中で300人ぐらいは問題になる数ではありません」と言うと会場から一斉に抗議のようなうめき声が起き、司会者が慌てて私を制止するということがあった。

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 その後も中国では華やかな近代化の背景でなお多くの人々が死んでいる。チベット、新疆の民族紛争はもとより、人災とあいまった自然災害、炭坑事故、交通事故、それに食品中毒、産業公害、法輪功弾圧、社会紛争、公務員による殺人事件など、その死傷者数を数える気にもならないほどである。ただ最近100余人の犠牲者をだした黒竜江省鶴岡炭坑の事故と、そうした炭坑の社長たちが北京、上海など国内の大都会、あるいは海外で高級マンションや外車を買い漁っていることに心が痛む。ちなみに世界一の外貨を保有しつつ、国連経済指標で1日1㌦以下の貧困層が約2.7億人(1日2㌦の層まで計算すると約5億人)ということは、この国の近代化がいかに歪んだものかを示している。最近は餓死者こそ出ていないが、杜甫が「朱門に酒肉の臭い、路上に凍死の骨」と詠った「格差容認」の伝統はなお健在なようだ。 

 つい中国の話が多くなったが、今なお大量死が続くアフリカ、中近東はともかく、第二次大戦後のアジアでは朝鮮戦争、印パ紛争、ベトナム戦争、中ソ国境紛争、中越戦争など軍事衝突を除いても、インドのボパールでの有毒ガス事件、ポルポト政権下の大量虐殺、スマトラ島沖地震などなど、万から千万単位の人命が無造作に奪われてきた。

 だがインドでは、もう一つ重大な問題について学ぶことになった。コルカタ(以前のカルカッタ)での取材でベンガル語の通訳を雇った。現れたのは、それはそれは汚いブラーマンであった。カメラを持ってくれと頼むと、「荷物を持つのはポーターの仕事だ」と断られた。彼と一緒にホテルのロビーに入るとガードマンが小声で「追っ払いましょうか?」と言った。別れ際にそのブラーマンに尋ねた。「同じ人間なのに、なぜハリジャン(不可触選民)がいるのだろうか」と。彼はインド風に厳かな英語で答えた。「おおわが友よ。バラにはバラの花が咲く、ユリにはユリの花が咲く。ハリジャンはハリジャンだ」。一瞬反論しようかと思ったが、どんな議論をしてもあのブラーマンの哲学を論破することができないことに気付いた。なぜなら私の質問の前提となる「同じ人間だから平等であるべきだ」という哲学が本当に成り立つのだろうかという恐ろしい疑問を抱いたからである。

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 数年前、北京の繁華街の王府井で子供連れの母親とすれ違った。なにか駄々をこねる子供に母親が「そんなに言うことを聞かないと農村にやるよ」と叱っていた。言葉の上では高らかに平等が謳われる中国ではいまなお法制上、社会・文化などあらゆる面で都市と農村の差別が厳然と存在している。都会からみると農民は人間ではない、少なくとも二等国民扱いである。もちろんインドではカスト制廃絶の努力が続けられている。中国でも都市・農村格差を批判する世論も強いが、伝統に支えられ、場合によっては政策的にも利用されている差別、格差を克服することは難しい。オバマ大統領の登場が世界各地で熱烈に歓迎されたのはその政策、個性よりも米国社会が黒人(厳密には混血)の大統領を生み出したことにあった。

 もちろん私自身は平等論者であり、さまざまな差別に怒りを感じる。だが同時にたった一人の貧乏ブラーマンの「ハリジャンはハリジャンだ」という断言を論破し説得できるだけの力があるのだろうか。フランス革命をはじめ歴史上、人間の平等のためにどれだけの犠牲が払われてきたのか。私たちの平等論、ひいては民主、人権への理念は世界になお横行する不平等、独裁、人権抑圧に立ち向かえるだけの強固さがあるのだろうか。(毎日新聞OB 2009年12月記)
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