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「飛鳥Ⅱ」南太平洋クルーズ(田中 洋之助)2008年3月

 「退屈しませんか。船酔いは大丈夫ですか」。私が40日にわたる「飛鳥Ⅱ」による南太平洋グランドクルーズに出発することを告げた時の友人たちの反応である。もちろん、正反対の声もあった。「うらやましいね。おいしい食事を毎日楽しみ、寒い日本を離れ、豪華な船旅をカップルでエンジョイするとは」と。

 この二つの反応は、平均的日本人のクルーズに対する対極的イメージを示すものであろう。私は1月30日、「飛鳥Ⅱ」に横浜で乗船、翌日、神戸に立ち寄り、西日本地方の船客をのせ、一路南太平洋を目指して南下を続けた。

 最初に寄港したのはサイパン島であった。この島は私にとって思い出深い。戦前、私の父は日本郵船の南洋航路「サイパン丸」の船長をしていた。まだ中学生の私は夏休みを利用して父の船に乗せてもらって、この島を訪問、初めて南洋の”土人”を見た記憶が今でも鮮やかに残っているからだ。

 サイパンに上陸した私たちは、早速、バスでバンザイ・クリフに出かけた。太平洋戦争の末期、米軍の攻撃で追い詰められた多くの日本人の婦子女が、この崖から海に飛び込み集団自決した場所である。

 「飛鳥Ⅱ」はサイパンを離れ、さらに南下しオーストラリアのケアンズに2月10日入港した。午後からバスで市内を見学、翌11日、ケアンズを出港、2月14日にはシドニーに入港。さらにニュージーランドに向かい、2月18日には今度のクルーズのハイライトともいえるミルフォードサウンドフィヨルドに入り、「飛鳥Ⅱ」の姉妹船の「クリスタル・セレニティ」と狭いフィヨルド内でランデブーする。両岸に1000メートル級の山がそびえ立つ風景は、圧巻だった。

 ここで寄港地の話は飛ばし、船内生活の日常を紹介しよう。「飛鳥Ⅱ」は最初、三菱重工の長崎造船所で「クリスタル・ハーモニー」として完成、長らく米国人中心のクルーズ船として活躍していたが、今から数年前、日本人専用の客船に衣替えをして、船籍を日本に移し、横浜を母港とした。

 シャワーでは満足できない日本人用として12デッキに「グランド・スパ」という名の大風呂をつくった。同じフロアのフイットネス・クラブで汗を流した私は毎日、この大風呂に入り、夕食での湯上がりのビールを楽しんだものだ。

 船客はほとんど全員が日本人だった。夕食は5デッキの「フォアシーズン」という名の大食堂で2回に分けて行われた。和食が多かったが、船長招待の日はフォーマルな服装に威儀を正して、フィリピン人の奏でるバンド演奏を聴きながら、フランス料理やイタリア料理のフルコースをエンジョイしたものだ。

 朝食はほとんど和食で、焼き魚をメーンにし、海苔、温泉卵、納豆、味噌汁、ご飯は白米、またはおかゆも選択可能だった。

 食卓はどこを選んでもよいので、毎日、多くの人と名刺交換して知り合いとなった。そして知ったことは、リピーターが多く、世界一周のクルーズを3度も4度も経験している人が意外と多かったことだ。

 しかも一見、村夫子然とした東北出身の老夫婦が数百万もかかる世界一周を数回も経験しているのは驚きであった。同席した古希の老母が1人で世界一周の話をしていたし、車椅子の老人や杖をつきながら足の悪い人がボーイに助けられ食卓につく風景も船旅ならでのものだろう。

 黙って座れば食事が出てくる、終わっても後片付けの必要のないクルーズの旅は世の主婦たちにとっては天国である。男性に比べ、女性にクルーズファンが多いのもこのためと思われる。クルーズの売り物は、非日常生活の提供にあるといわれるが、毎日の家事からの解放はもちろん、水平線の彼方に沈む日没時の太陽の美しさも、海の旅ならではの魅力であろう。亭主はいささか退屈したが、女房にとっては天国であつたのが今度のクルーズの結論であった。(2008年3月記)
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