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中国っておもしろいと思った最初の旅(竹居 照芳)2008年1月

 中国への観光旅行がいつのまにか10回を超えた。だが、何といっても、初めてのときが一番、強烈に記憶に残っている。百聞は一見に如かずで、それまで、仕事のうえでもほとんど関係のなかった中国が、失礼な言い方かもしれないが、とてもおもしろいと感じられるようになったのである。

 この最初の中国訪問は、1990年の夏、日本のメディア関係者5人とともに中国国家旅遊局に招待されたもので、東北部(旧満州)を訪れ、最後に北京に立ち寄った。東北部では大連―鞍山―瀋陽―ハルビン―チチハル―ハイラル―満州里―ハイラルと足掛け14日間にわたって旅行した。その旅で感じたのは、中国は共産党の一党支配で、国中ががちがちの一枚岩だと思っていたが、ある面では多様でかつ柔軟な社会でもあることだった。

 民族は漢民族以外に、満州族、モンゴル族、朝鮮族、その他の少数民族がたくさんいる。内モンゴル自治区のフルンベイル盟には31の少数民族がいて、ハイラル市ではモンゴル族のための小学校が市内に5つあった。東北部における宗教は、鞍山市の仏教地、千山のように、文化大革命による迫害の痕跡が残ってはいたが、道教、仏教、イスラム教などが存続していた。チチハルのイスラム寺院にはイラク・クウェート戦争について黒板に「武力はいけない。教導に基づいて解決を。‥‥(中略)‥‥。皆が弱い者の味方を。強い者への制裁も行き過ぎてはいけない」とあった。

 チチハルでは、国営農場をベンチャー魂で改革しようとしている責任者の話に感動した。教育レベルの引き上げに努め、機械類に減価償却の考えを採用していた。チチハルやハイラルなどの辺境地域では、ソ連(ロシア)との間でバーター貿易や建設作業、農作業などの出稼ぎが行われていた。

 国に政策あれば、人民に対策ありという言葉も知った。瀋陽からハルビンまでは飛行機で行ったが、機中で、瀋陽の会社の社員旅行の人たちと一緒だった。また、ハイラルから約50km西南の大草原の観光地には、伊敏河炭鉱で働く建設会社の従業員とOBとが会社のバスで慰安旅行に来ていた。弁当や飲み物をバスに積んできて、酒を呑み、踊り、マージャン、将棋で遊んでいた。ほかでも社員旅行のグループに出会った。研修は別として、企業が納める税金が減らないように、無料の社員旅行は禁止されていたようだが、そうした政府のお達しを無視してのことだったようだ。

 また、旅で強く感じたのは、北に行くほど経済レベルが低くなっていることである。日本から直行した大連は経済開発が進み、街中を歩く女性の服装は自由で、ミニもハイヒールもみかけた。泊まったホテルは日本とさして変わらないほど近代的であった。ハルビンでもハイヒールの女性が多かった。

 工業都市の瀋陽やハルビンでは、中国政府が民需転換を求め、企業はそれに応えようとし始めていた。だが、チチハルおよびその先は工業化されていなかった。ソ連との国境が近いだけに、意図的に経済開発を避けてきたからである。ハイラルでは、大きな川である伊敏河で女だけでなく男も洗濯をしていた。身体を洗う人も見かけた。川はかなりにごっていたが、水道水が貴重なので、川の水を利用していたのである。

 電気の安定供給や水道の普及度合も、概して北に行くほど低下していた。そして、トイレおよびトイレットペーパーは経済レベルを示すバロメーターではないか―そう思ったのは、この旅である。大連では清潔な水洗トイレと白いロールペーパーだった。それが北に行くにつれて、ロールペーパーの色が灰色になり、さらにロールの切り口が凸凹になる。ついにはロールではなく、灰色の紙の重ね置きになる。

 太っている人が見当たらないとか、自然の景観、歴史的な建造物、日本の侵略の爪痕、あるいは食べ物などについてもエキサイティングなことばかりで、この旅で中国をもっと見たい、知りたいという気持になったのである。(2008年1月記)
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