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幻のモカの思い出(脇 祐三)2007年12月

 新聞記者になってから30年以上の間に、訪れた国の数は80前後になるだろうか。一番エキゾチックだった国はどこかと問われると、いつも「イエメン」と答えている。アラビア半島の南西部に位置するイエメンは、中世そのままの風俗や習慣を色濃く残す国である。そして南部では、断崖絶壁がインド洋に迫るハドラマウト地方や、死火山のクレーターとサンゴ礁が織りなすアデン周辺の奇観に驚く。北部では3000メートル級の山々や、岩山の上に石の館が連なる村の風景に目を奪われる。アラブと言えば砂漠という単純な思い込みを、確実に裏切る景観の多様さも、この国の魅力だろう。

 私が何度かイエメンを訪れたのは1980年代。南北の国家統合によって現在のイエメン共和国が成立する前だ。当時の南イエメンはとても貧しく、首都アデンでもドアの窓にガラスの代用品としてベニヤ板や段ボールを差し込んだ車が走っていた。北イエメンでは首都サヌアから遠く離れた内陸部で、ナンバープレートの付いていない小型トラックをたくさん見かけた。住民が出稼ぎ先のサウジアラビアでトラックを買い、そのまま地元に乗って帰って使う。同じ部族が隣国にまたがって住む辺境地域では国境の意識が希薄だし、購入した車を役所に登録する発想もないようだった。

 イエメンの成人男子は、外出するときに三日月形の短剣を腰に帯びる。他のアラブ諸国でハンジャルと呼ばれる短剣を、イエメンではジャンビーヤと呼ぶ。この短剣が武器として用いられることはほとんどない。我々がネクタイを着用するのと同じ感覚で、短剣を身に着けているらしい。サヌアの旧市街のスーク(市場)に行くと、いたるところに露天の短剣屋があり、何十本ものジャンビーヤが棚にぶら下がっている。そのありさまも、ネクタイ専門店に似ていた。

 サヌアあたりの風俗はアラブ的だが、紅海岸のティハーマ地方はまるで別の世界だ。ほとんどの女性が素顔をさらし、色鮮やかなワンピース式の服を着て麦わら帽をかぶり、肩から編み籠を提げている。ここはベトナムかと思わず叫びたくなるほど、東南アジアと似た雰囲気が漂う。そして地面に接する円錐形の屋根を木の枝や葉で葺いた、竪穴式住居さながらの小さな家が並ぶ。屋根の隙間から伸びるテレビのアンテナがなければ、中世を通り越して古代まで遡ったような錯覚に陥る。

 だが、この地方が世界の交易の焦点になった時代もあった。世界最大のコーヒー豆の産地だったころ、西欧列強がアラビア語でブンヌと呼ばれる茶色の豆の買い付けに殺到したからだ。いまラクダやハト、中古バイクなどの市が立つベイトル・ファキーフの町が、かつてのコーヒー豆の集散地である。積出港だったムハーには西欧諸国の商館が軒を連ねていたという。西欧の人々はムハーを「モカ」と呼んだ。その地名は今日でも、アラビカ種のコーヒーの代名詞になっている。

 コーヒーの原産地はアフリカのエチオピア地方だという。だが、商品作物として栽培されるようになったのは紅海の対岸だった。アルコール飲料を口にするのを戒めるイスラム世界で、コーヒーは酒に代わる嗜好品として珍重された。西欧に伝わったのは17世紀。そのころアラビア半島を支配していたオスマン・トルコは、コーヒー豆の輸出に力を入れ、苗木の持ち出しを禁じた。その禁制を破ったのは当時の通商覇権国家オランダだ。1690年ごろムハー沖で密かにオランダ船がコーヒーの苗木を積み込み、今日のインドネシアのジャワ島に運んだ。ジャワ島を皮切りに世界各地でプランテーションによるコーヒーの大量生産が始まり、イエメンのコーヒー生産は没落の道をたどる。

 そんなコーヒーの歴史を記した本を片手に、今日のムハーを訪れても、往時の面影は何も残っていない。300年あまり前に商館や倉庫が立ち並び、2万人以上の人が住んでいた紅海岸屈指の港町の、現在の人口は数百人。人影のない家並みをアフリカから渡ってくる熱い風が吹き抜けるだけだ。かつて聳え立っていたモスクの尖塔の土台らしき場所から、ぐるりと周囲を見渡すと、すべてが蜃気楼のように思えた。「幻のモカ」の光景は、その日の夜に現在の貿易港ホデイダのホテルでありついた一缶のハイネケンの冷たい快楽の記憶とともに、20年を経た今も脳裏によみがえってくる。
                                                    (2007年12月記)

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