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上海で別れた後の2人は(加藤 千洋)2007年4月

 最近、必要があってエドガー・スノー(1905ー1972)の毛沢東会見記を読み直した。2人が北京で最後に会った70年12月の際のものだ。米中関係は翌71年7月のキッシンジャー秘密訪中をきっかけに一気に雪解けに向かう。改めて読むと、会見記ではニクソン大統領の早期訪中を毛が促すメッセージがはっきりと読み取れる。

 スノーといえば『中国の赤い星』だ。延安でゲリラ戦を続ける中国紅軍と生活を共にし、秘密のベールにつつまれた革命家マオ・ツォートンの実像を初めて外部世界に伝えた世界的ベストセラーである。

 このジャーナリストとしての記念碑的著作が「実は偶然の要素がからんで生まれたのです」という、ちょっと気になる話を耳にしたのは1998年春の中国南部、雲南省への取材旅行の折だった。

 目的地は雲南北部の麗江。800年前の宋代の町並みが残り世界文化遺産にも登録されている古都だ。いまは郊外に空港が出来て年間200万人を集める観光地だが、それ以前は省都の昆明から長距離バスで数日がかりの辺境の地だった。

 町の北にそびえるのが玉竜雪山。北緯27度という南部に位置する山だが頂上は万年雪で覆われ、標高5596㍍ながら急峻な地形が人類の征服を拒み続ける未踏峰だ。

 この世界の登山家あこがれの山の麓に一人の米国人が住み着いたのは1920年代のこと。その名はジョセフ・ロック(1884ー1962)。オーストリア系米国人の植物学者、そして麗江に多数住む納西(ナーシー)族の言葉や「生きた象形文字」と称される東巴文字の研究者としても知られる。

 さて、このスノーとロック。この2人の米国人に意外な接点があったという「秘話」を聞かせてくれたのは、麗江旅行に同行してくれた雲南省政府の外事部門に勤める青年だった。大学で英語を専攻し、スノーの著作は英語版で読んだという勉強家だったが、彼の研究の成果では2人の出会いと別れは、こんな風だったというのだ。

 ウォール街で株をやって少しばかり金をつくった22歳のスノーは1928年、太平洋を船で越えて上海に到着した。特別の計画はなく「6週間くらい中国で過ごそう」という腹づもりだったようだ。

 同じ船に乗り合わせたのがロックだった。彼の方は中国大陸の知られざる土地、とくに西南部のヒマラヤ山脈の山岳、大峡谷地帯の植物採集と探検の志を秘めていた。

 上陸後、2人は上海でしばらく行動をともにした。そしてロックは雲南の旅にスノーを誘う。が、ちょっとした諍いで2人は別れ、結局、西南中国へと向かったのはロック一人だったという。

 上海に残ったスノーは徐々に混沌とする上海、そして中国という国の魅力にとりつかれ、地元の英字誌「チャイナ・ウィークリー・レビュー」で働くことになる。

 私がこれまでに目にしたスノー関連書では、この職探しはミズーリ大学新聞学部長が同誌編集長宛ての紹介状を書いてくれていたことがきっかけだったが、最初はほんの腰掛け程度で記者の仕事を始めたようなである。

 いずれにしろスノーとロックに興味を持つ中国青年の語った通り、もしもロックの誘いにスノーが乗って雲南へ同行したとしたら、その後のスノーの中国共産党根拠地入りと世界的ベストセラーも生まれなかった、といえるかもしれない。

 以上が麗江への旅以来、ずっと気になっている話だ。私の初歩的調査ではロックが雲南省に初めて足を踏み入れたのは1922年。そうするとスノーと同船したのは一時帰国の際なのか。いずれ徹底的に調べて結論を出したいと念願している。(2007年4月記)

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