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お墓めぐり(田勢 康弘)2007年3月

 取材やら講演やらで旅芸人よろしく年中、旅をしている。予定が夜であっても、朝一番の飛行機で行って、必ずどこかをさまよう。このごろになって気がついたのだが、どうもお墓を探すことが多い。多いというよりは、探すことそれ自体が、趣味というか生きがいのようになってしまっている。
 
 金沢の繁華街、片町から犀川大橋を渡って、有名な忍者寺の裏にある願念寺。十年ほど前に、この寺を見つけて以来、金沢へ行くときは必ず立ち寄る。金沢でなくとも福井でも富山でも、この寺へ立ち寄るために金沢へ足を向けたりする。この寺で観光客に会ったことは一度もない。この寺に加賀の俳人、小杉一笑の墓、「一笑塚」がある。
 
 松尾芭蕉の「奥の細道」には俳句が50句あるが、その中で1句だけ趣の異なる(私の独断だが)ものがある。「塚も動けわが泣く声は秋の風」。旅の後半、金沢へ立ち寄った芭蕉は、芭蕉を師と仰ぐ一笑に会うことを楽しみにしていた。宿に落ち着いた芭蕉を訪ねて加賀の俳人たちが顔をそろえた。が、一笑はいない。いぶかる芭蕉に彼らは答える。「一笑は1年前に亡くなりました」。
 
 願念寺で追悼の句会が催され、そこで芭蕉はこの句を詠んだ。「塚」とは墓のことである。墓に向かって「動け」と叫ぶ。秋の風が吹く、それが風の音なのか、芭蕉の号泣なのか。会ったことのない師弟の愛である。だれもおとなうことのない寺で、私は凡庸な自分の越し方を思う。もう行く末を考えるには齢を重ね過ぎている。
 
  アメリカのハリウッドで、作曲家ラフマニノフの墓を探したことがあった。彼はハリウッドで死んだ、と本に書いてあった。墓がどこにあるかはわからない。死んだハリウッドに墓があるだろうと決めてかかったのだ。大きな墓地を二つほど探した。私の墓地探しにはルールのようなものがあって、決して人に聞いたりしないのである。どこにあるかもなるべく調べたりしない。

 片っ端から墓碑銘を読み歩く。偶然、見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。もともと人に道を聞いたりできない人間なので、必ず道に迷う。ラフマニノフは見つからなかった。おそらく生まれ故郷のロシアに墓があるのだろう。彼の墓を探していて、偶然、マリリンモンローの墓を見つけた。お墓のマンションとでもいうべき1メートル四方の棚のような墓にマリリンモンロー、とだけ刻まれていた。一輪挿しに真っ赤なバラが一本。そこに彼女の墓があることは地元では有名なのかもしれないが、実に簡素で、魅力的な墓であった。
 
  墓探しが生きがいかも、と考えたのは多磨霊園を歩いているときである。生きていればことし70歳になるはずの樺美智子さんの墓を探したときである。昭和35年6月、日米安保条約改定反対の国会デモで死んだ東大の女子学生だ。彼女の遺稿集「人しれず微笑まん」には当時高校1年生だった私は大変な衝撃を受けた。この本の題名にもなった「最後に」という樺さんの詩が、縦50センチ、横1メートルほどの碑に彫りこんである。
 
 両親、二人の兄の名が刻まれ「深い悲しみのうちにここに埋葬する」と記されていた。昭和34年に皇太子妃になられた正田美智子さんと35年にデモの最中に死んだ樺美智子さん。二人の「美智子さん」が戦後の荒廃を引きずっている時代に与えた影響は大きかった。もちろん、樺さんに会ったことはないが、私の精神的履歴の中では、かなり大事なところに位置している。戒名のない墓の前で「あの同じ日に国会でデモに参加していた高校生も、もはや還暦をかなり越えましたよ」と報告した。
 
 凛々しい樺さんは、あの当時のままの表情で、私の記憶の中にいる。樺さんが亡くなった国会南門の前の記者会館で40年近く新聞記者をつとめ、いまはまた、デモも立て看板もない大学のキャンパスで、私はあのころの樺さんと同じ世代の若者たち相手に先生をしている。(2007年3月記)
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