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「ヨーロッパ」になった南仏プロヴァンス(友田 錫)2007年1月

 南仏はプロヴァンス地方の真ん中に、ヴェゾン・ラ・ロメーヌという人口5千人あまりの小さな町がある。ロメーヌという地名が示すとおり、その昔、ローマの軍隊が駐屯していた古い町だ。こじんまりしたローマ時代の円形劇場も残っている。スイス・アルプスから流れ下るローヌ川の支流、ウヴェズ川にそって、片側に2、3階建ての平たい家並みが広がり、対岸には小高い丘、というより低い山が迫っている。その中腹にも家が点在していて、下の町と区別してオートヴィル(上の町)という名前がついている。頂上に12世紀の城砦の廃墟があって、そこから、下の町、またその彼方のプロヴァンス地方が遠望できる。数十キロ南に下ればアルルの町や、14世紀に法王庁がおかれたアヴィニョンもある。
 
  このヴェゾンで、親しい友人でありジャーナリストの先輩として尊敬するM氏が、愛妻Sさんと一緒に、年の半分を過ごしている。彼はフランスの新聞、雑誌の極東特派員として1950年代の初めからずっと日本に居を構えていた。1980年代半ばに定年でフランスに引き揚げ、このヴェゾンの「上の町」に、17世紀の司祭館の廃屋を見つけて修理して住めるようにした。春から秋までをヴェゾンで過ごし、冬はアルプス下ろしの「ミストラル」を避けてパリ暮らし、といううらやましい生活のパターンだ。
 
  もう何回になるだろうか。用があってフランスに行くたびに、M夫妻を訪ねてパリから新幹線でこのヴェゾンに足を伸ばすのがならいになっている。とはいってもこんな小さな町には新幹線は止まらないから、30キロほど南のオランジュで降り、そこまでSさんが車で迎えに来てくれる。
 
  2年半前のこと、このヴェゾンで大発見をした。
  「私たちはヨーロッパ人ですもの」。Sさんがさらりと言ってのけた。夫妻の家の斜め向かいに50歳代のイギリス人の老嬢が住み着いている。数年前までSさんも近所の住民たちも、この老嬢のことを「あのイギリス人が」と言い、白い目で見ていた。それがどうしたことか、いつの間にか親しそうに付き合っている。なぜ、と尋ねた私にSさんの口から飛び出したのが、この「ヨーロッパ人」ということばだった。
 
  向かいのイギリス人だけでなく、ここ数年、ドイツや北欧からもずい分この町に住み着くものが増えたという。よそ者ぎらいだった町の住民から、いつの間にか拒否反応が消えたらしい。Sさんと話してみて、どうやら「ヨーロッパ人意識」の定着がその背景にあると得心した。フランス人意識、いやそれ以前に地方、地方の「おらが国さ」意識が強烈なフランス人にしては、耳を疑うような変わりようだ。あらためてまわりの車に目をやると、濃紺の地に黄色の星を加盟国の数だけ円形にあしらったEU、ヨーロッパ連合の紋様のついたナンバープレートが目につく。
 
  Sさんだけではない。M氏までもすっかり「ヨーロッパ人意識」になじんでいることにびっくりした。彼は十代の後半に対独レジスタンスに加わってつかまり、ドイツ国内の三つの強制収容所を転々とした。口にこそしなかったが、ドイツとドイツ人に複雑な感情を抱いていたはずだ。しかし、いま彼と話していて、そのわだかまりがすっかり消え去っていることがはっきり感じ取れた。
 
  数年前、ドイツはM氏のように強制収容所を生き延びた元捕虜ないし囚人たちをヨーロッパ各地から招いてそれぞれの収容所跡を再訪させ、そこの町ないし村人たちと交歓する機会をつくった。戦争中少年だったという村人がM氏のところにやってきて「私はあなた方に向かっていつも石を投げていました。どうか許してください」と謝ったという。その情景を語るとき、彼の目は潤んでいた。和解ということばの深いところにあるものを、垣間見る思いがした。
 
  「ローマ」の町、「フランス」の町、そしていま「ヨーロッパ」の町になったヴェゾン・ラ・ロメーヌ。ヨーロッパの統合はどうやら後戻りしないところに来ていると思う。ともあれ、この南仏プロヴァンスの奥座敷にも、よく見るとヨーロッパの歴史が鮮やかに刻まれていて興趣がつきない。( 2007年1月記)
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