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モスクワ・センチメンタルジャーニー(若宮 啓文)2006年12月

 「クレムリン・緊迫の7日間~日ソ国交回復・50年目の真実」。これは2006年3月にNHKのETV特集で放送されたドキュメンタリー番組のタイトルだ。

 「戦後日本の大きな転換点となった1956年の日ソ共同宣言から50年。日露両国で日ソ交渉に関する新たな資料の存在が明らかになった。初公開される当時の鳩山一郎首相秘書官、若宮小太郎の日記。鳩山首相が日本を出発する10月7日から帰国の11月1日までの交渉団の詳細な行動が記録されている」。そんな宣伝文句の通り、番組は「若宮秘書官」の同行日記に沿って展開したのだが、実はこの人物は私の父である。長く母のもとに眠っていた訪ソ日記が日の目を見たもので、朝日新聞でも報じられた。

 さて、私は去る10月、モスクワで開かれた「日ソ国交50年」記念の「日ロ・フォーラム」に招かれた折、大野正美モスクワ支局長と一緒に鳩山訪ソ団の足跡をたどってきた。私にとっては、40年ほど前に他界した父に代わっての「センチメンタル・ジャーニー」ともなったのである。

 まずは首相らが泊まった迎賓館。もともと日本側はソビエツカヤ・ホテルに部屋を予約してあったのだが、ソ連政府が迎賓館を用意し、鳩山首相と河野一郎農相、そしてその随員がここに泊まった。「ブルガーニンの命令だという。まるで国賓待遇だ。本当はキュークツで有り難迷惑の感もなくはないが、それでも厚意はうれしい」と日記にあった。

 いまも外務省別館として外交交渉に使われるこの館のことは、新聞紙上でも大野支局長の記事や私のコラムで紹介したが、革命前はモロゾフという大富豪の持ち家だったという。父は「フランス風、しかも宮廷風の部屋と調度」に驚き、自分も50畳はあろうという部屋をあてがわれて「王侯貴族のようだ」と書いている。館を見学して、なるほどと思った。一階には大理石張りの真っ白な会議室のほか、赤い壁に大きな暖炉が目立つダイニングルーム、隠し扉が3つもある執務室などが並んでいる。その一室にはナポレオンがモスクワ遠征時に持ってきたという「お宝」風の箪笥もあって驚いた。

 このダイニングルームで鳩山首相主催の答礼昼食会が開かれた。フルシチョフ第一書記やブルガーニン首相らソ連の要人がここに勢揃いしたのかと思うと、いささか胸の高まるものがある。どんな食事だったかわからないのは残念だが、日記には「日本酒を出してやった」とあった。

 これより数日前、ソ連側が主催した昼食会はクレムリン宮殿で開かれた。そこで日本側があきれたのが「やたらにウイスキー、ウオッカ等をついでカンパイ、カンパイとやる」こと。「河野氏は酒が飲めないので参っている」ため、しまいには「小生が代わりに飲んでやった」とある。実は父も酒はさほど強くなかったから、自爆の覚悟だったのかもしれない。

 首脳会談はすべてクレムリンで行われたが、今回見せてもらったのはその広報部門。そこでは大統領のホームページを作っていた。クレムリンの一角でインターネットとは……50年前には考えも及ばぬことだった。

 さて、モスクワはロシア帝国時代の建築と、いかにもソ連共産党を思わせるスターリン様式の建物、さらには新興国家風のネオンまぶしい現代建築が入り交じって不思議な都市だ。赤の広場に面して威風堂々と陣取る4階建ての国営デパートは、父が訪れたときと形こそ同じでも、中は高級ブランドのブティック街に化けていた。

 鳩山訪ソと同じ年、スターリン批判を明確にしたフルシチョフも、やがて追放の形で失脚する。その墓をノボジェビッチ修道院横の墓地に訪ねてみた。チェーホフやゴーゴリらの芸術家をはじめ著名人がいっぱいのうえ、墓石にはさまざまな彫刻がほどこされ、さながら野外美術館の趣だ。お目当ての墓に行き着くと、黒と白の墓石にはめ込まれたフルシチョフの顔像が「よく来たね」と語りかけてくれたようだった。(2006年12月記)
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