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父と一緒のミクロネシアの旅(深尾 凱子)2006年10月

 私は今、父と一緒にはるか南洋のミクロネシアの島々を旅している最中だ。父は昭和2年(1927年)に東京美術学校(現・東京芸大)を卒業した洋画家で、106歳――といっても生きていればの話で、実際は18年前、88歳で亡くなっている。

 それなのに、今なぜ私が彼と一緒に南の島々を航海して回れるのか。事の起こりは、このほど東京・町田市立国際版画美術館から届いた一通の手紙である。「明かされる南洋の日本美術――南海原始に魅せられた彫刻家と画家」という展覧会を2008年に企画しているので、父の作品も出品してほしい、という趣旨だった。開催要項にはこうある。

 「ミクロネシアに浮かぶトロピカル・リゾート・アイランドとしてのサイパン島やトラック諸島やパラオ諸島。そこは1920年代初めより1945年まで、日本が委任統治する日本領であった。そのような南海の地に、ゴーギャンのように文明からの解放を求めて、あるいは民俗学的関心や原始への好奇心などから、日本の画家や彫刻家が集まった。本展覧会は南洋というトポスで結ばれた芸術家たちの作品に焦点を絞りながら、現代人の南洋志向に繋がる日本人の精神史について考えたい」

 趣意書に示されたリストの中には確かに父・染木煦(あつし)の名前もあった。父は昭和9年(1934年)、私の生まれた翌年に半年間のミクロネシアの旅に出かけた。没後もそのままになっている父のアトリエには、南海の島々の風物や現地の人々の生活を描いた油絵、版画、スケッチなどがたくさん遺されている。

 展覧会に出品することを快諾し、さらに関連資料をと、書庫を整理していたところ、便箋の表裏にびっしりと綴られた日記風書簡原稿が出てきた。こよりで綴じた数百枚の原稿の束は茶色に変質した封筒に収められて、表書きにこう書かれている。

 「書簡に託したミクロネジヤ紀行――日本は戦争の結果ミクロネジヤを失った。この紀行はその以前のものである。もう出版は不可能であろうが、我が生涯の一記録として保存する」

 絵画や版画だけでなく、このような紀行を遺していたことを初めて知った。それは「3月7日正午。出発の際は横浜港まで御見送り有り難う」に始まり、母宛の私信になっている。「1時頃観音崎通過。ペルリの来た浦賀、歌に名高い城ヶ島を右舷に見て、船はいよいよ東京湾を出ます。この辺駆逐艦が盛んに走っています」「実に幸福な船出です。小生の心は希望と喜びに満ちています。この幸福を御許に直接話すことが出来ないのが何より残念です」――刻々と移りゆく船上からの光景が活写され、34歳、青年時代の父の胸の高鳴りが今にも聞こえてきそうだ。

 船の名は筑後丸。横浜を出て4日後にウラカス島。5日後にサイパン島。さらにトラック諸島、パラオ諸島、ヤルート島などを次々と訪れて、現地人の生活、風習、民具、遺跡、植物など、あらゆる観察記録が豊富なスケッチ付きで書かれている。

 「サイパンにて。土造のチャモロ人の家、木造で床の高いカナカ人の家。板囲い、トタン張りの一番貧弱なのが日本人移民の家」「チャモロ人の洗濯は草の上に衣類を広げ、石けんを塗って水を振りかけ、日に当てるだけ」

 そして書簡の最後は必ずこう締めくくられている。「チョコちゃん(私の幼児時代の愛称)の健康をくれぐれも大事にされたく」

 “チョコちゃん”はいま、72年前の父の旅の記録をなんとか出版しようと考えている。(2006年10月記)
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