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会津とスコットランド(高橋 純二)2006年8月

会津へ行こう、と思い立ったのは、特別な理由があったわけではない。お盆の後に4、5日の夏休みが取れることになって、さて、どこへと考えをめぐらしていた。猛暑のさなか、あまり遠くへ行くのも億劫だ。東京から2、3時間で着くところ。できれば、海よりも山がいい。澄んだ空気を味わいながら温泉でのんびりしたい。

ということで妻が前から目星を付けていた福島県の東山温泉に決めたのだが、同僚は「この暑い中で温泉かい」と皮肉っぽく言う。そりゃ冬の温泉は格別だが、真夏の温泉も悪くはない。

さて、山あいの川沿いにたたずむその鄙びた温泉街はJR会津若松駅からタクシーで15分のところにあった。向瀧(むかいたき)というのがお目当ての宿、創業133年の老舗である。

玄関前に橋がかかっている。その橋越しに望む和風建築の堂々たる外観。赤瓦葺入母屋というそうだ。千鳥破風の線がなんとも優雅で、破風に取りつけられた装飾の懸魚も見事だ。中庭には懸崖に階段状に建てられた連続棟。傾斜地に逆らわず、自然の地形を実にうまく取り入れて造っている。国の登録文化財というのもむべなるかな。

会津というとなぜか民主党の渡部恒三さんの顔が浮かぶ。顔というよりあの訥々とした会津弁である。「落ちこぼれる人を助けるのが政治。負けた者は死んでいけというなら総理大臣はいらない」と、国会で小泉首相をいさめたことがあった。滑稽さの中に気骨を感じさせる人だ。こんなエピソードがある。

渡部さんが自民党の国対委員長だったころの話。秘書が「警察庁長官に代わります」と電話をつないだ。さて、何事かと受話器をとると、「何かご指示があるのでしょうか」。「いや、特にない」と電話を切ったが、何のことかわからない。実は「けさの朝刊を」という渡部さんの言葉を秘書は「警察庁長官を」と聞き違えて電話していたのだ。

翌日訪れた大内宿(同県下郷町)でその会津弁を聞いた。古街道の両側に江戸のたたずまいの萱葺民家が連なる。一軒の縁側におばあちゃんがちょこんと座り、豆の入った袋を並べていた。大きな屋敷に一人で住みながら、「花嫁ささぎ」という豆を作っているそうだ。息子夫婦は会津若松にいるとか。そんなことを話していた。

司馬遼太郎さんが「街道をゆく」シリーズで会津について書いている。会津人の誇りと屈折は大ドイツ統一以前のプロイセン王国に似ている、と。ふと思ったのは英国スコットランドとの相似である。ロンドンに駐在していたころ、何度か取材でスコットランドへ行った。その度に当地の英語にてこずった。ほとんどわからない、聞き取れないのだ。

英国人の助手も「私も半分ぐらいわかりませんよ」。当時、スコットランド・エディンバラを舞台にした「トレインスポッティング」という映画があった。その映画を見ていると時折、英語の字幕が出るのが不思議だったが、いま思うとあれはつまり英国の会津弁みたいなものなのだろうか。

ケルト系スコット人を中心とする独自の文化圏を築いていたスコットランドはイングランドとの血みどろの戦いの末、「連合王国」に統合された。その戦いを戊辰戦争に置き換えれば、さしずめスコットランドは会津藩、イングランドは薩長連合ということになる。

エディンバラのパブで会った初老の男性は700年前にウィリアム・ウォレスが宿敵イングランド軍に大勝した日をはっきりと覚えていた。ウォレスはスコットランドの英雄である。会津の人々はどうなのだろう。宿敵薩長に対する恨みつらみは消えたのだろうか。

2泊3日の小さな旅は終わった。結局、会津若松では七日町通りを歩いただけで、白虎隊の飯盛山や鶴ヶ城などへは行かなかった。観光事業化された悲劇を追体験する気にはどうしてもなれなかったのである。

家に戻って、大内宿のおばあちゃんのところで買った豆をゆでて食べた。それは会津弁のような朴訥とした、どこかなつかしい味がした。(2006年8月記)
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