取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
シバの女王の国(秋山 民雄)2006年2月
話には聞いていたので驚きはしなかったが、実際に見ると、短剣がほかの国にはない雰囲気をつくり出しているのがわかる。「アラブの源流」「シバの女王の国」といわれるこの国の旅が、これから始まるのだというちょっと高揚した気分にさせてくれる。
4輪駆動車に分乗するのは、地勢の険しいこの国では観光バスが使えないためだ。ジャンビアと呼ばれる短剣のほとんどは、実は刃がない。いわば男のアクセサリーである。
裾の長いゆったりした衣装にカフィーヤ(アラブの頭巾)、それに「J」の字型の美しい鞘に収めた短剣という姿は、アラビアンナイトの世界を思わせるサヌアの旧市街にぴったりだ。この国の乾燥した厳しい風景にもよく似合う。
この男たちが服装にそぐわない携帯電話を取り出して、あわただしく話し合う時間帯がある。やがて車を止め、姿を消す。戻ってくるときは柔らかそうな若葉の入ったビニール袋を手にしている。
カートである。軽い覚醒作用のある木の葉で、これもイエメンの男には欠かせない。ガムのようにかんで、口の中にため込み、片方のほおをふくらませる。カートなしでは40度を超えるような暑さのなかで働く気になれないのだそうだ。
そういう男たちの運転で断崖の上に築かれた古い町をいくつか訪ねた。遊牧民の襲撃から身を守るために、こうした土地に密集して住んでいたのである。なかには断崖の上と下に分かれた「双子の町」もある。下の町の住民は危険が迫ると、細い急な坂道を登って上の町に逃げ込んだのだ。
上からのぞくと足がすくむほど高低差がある。視線を上げていくと町の先には平地が続き、その先に崖がそびえている。大きな涸れ谷のようだ。空気が乾いて澄んでいるので、はるか彼方まではっきり見渡せる。雄大な眺めに人間の存在が小さなものに感じられて、つまらない考えはどこかに吹き飛んでしまう。
別の町で、周囲に築かれた壁の中に白い石材があるのを見つけた。赤褐色のほかの石とは色も材質も違う。文字か記号のようなものが刻まれている。ガイドは「古い時代のものだ」と言う。「シバの女王の時代か」と尋ねると、「そうだ」と答えたが、それほど自信があるわけではなさそうだった。
この国の古い時代の遺跡は政府の力が及ばない部族支配地域にあって観光客は近づけない。紀元前にさかのぼる古いダムの跡もあるのだが、途中で人質にされる危険があるというので行けなかった。この地域の部族は外国人の人質と引き換えに地元の学校の建設や道路の整備を政府に要求するのだという。
シバの女王はエルサレムにソロモン王を訪ねて香料や金、宝石を贈ったと旧約聖書に書かれている。女王は実在したのか、その国が実際にいまのイエメンの土地にあったのか。古代には貴重品だった乳香の交易で栄えていた国がここにあり、女王がいたことは確かなのだが、それがシバの女王なのかどうか、まだ謎の部分が多い。
ぶつ切りの白いアメのように見える乳香から立ち上る香りは松ヤニを思い出させただけで、残念ながらシバの女王の面影は浮かんでこなかった。いまなお謎に包まれて、シバの女王もイエメンも魅力的である。(2006.02)