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道連れ(緒方 四十郎)2005年12月

旅は道連れというが、旅の楽しみは、家族や親しい友人と連れだって旅行することだけではない。旅行中、予期しないような人物とたまたま一緒になることが、旅を楽しくし、忘れがたくすることも決して少なくない。私は、就職してから、米国に留学したり、英米両国に赴任したり、海外での会議に出席したりすることが多かったから、飛行場や機内で思わぬ人物にでくわすことがたびたびあった。

日銀からニューヨークに駐在していた1970年代、春と秋の年2回、支店長会議のため一時帰国して、現地の状況を報告することとなっていた。ところが、欧州の場合と異なり、米国の事情については、日本にいる同僚がかなりの知識をもっていたので、当たり前のことを話せば、なんでわざわざ現地に駐在しているのかと批判され、あまりにも変わったことを知ったかぶりして話せば、消息通からは「眉唾もの」と軽蔑されるおそれがあった。その上に、往時とは異なり、日銀の最高幹部が毎月バーゼルのBISに赴いて、ニューヨーク駐在の私どもにはそう頻繁には会えない米国の連銀の最高幹部と話し合っていたのだから、支店長会議での報告を起案することは、いつも頭痛の種であった。

ところが、77年10月19日、JFK空港からパンナム機に乗ったところ、当時は1等の客のために階上に食堂があり、予約しておけば、そこでゆっくり食事ができた。案内されたテーブルには、私のほかもう一人の席があり、Greenspanという名札があった。あれ、と思っていると、着席したのは、新聞やテレビで顔をみたことのあるグリーンスパン氏そのものであった。

同氏は当時フォード政権の経済諮問委員長を退いたばかりで、民間の経済調査会社を経営していた。食事中なにげない話しをしたのち、階下の自分の座席に戻ってみると、なんと私の隣の席はグリーンスパン氏の席ではないか。それから東京の羽田空港まで約10時間、米国経済の現状、見通し、国際収支や米ドルについての考え方など、同氏は私のあらゆる質問に実に雄弁に答えてくれた。当時は民間人だったから、議論に遠慮は全くなかった。

その間一度だけ、「キミはなにをしているのか」ときいたので、「バンカーだ」と答えたところ、それ以上私のことには全く関心を示さなかった。ところが、羽田に近づいてくると、「ミスター・フクダから出迎えの車が来ているはずだから、一緒に乗っていかないか」といってくれた。ミスター・フクダは時の総理らしかったから、乗せてもらいたいとも思ったが、同氏は、全ての荷物をチェックせずに自分で運んでおり、荷物をチェックした私が彼を空港で待たせるわけにはいかないので、残念だったが、せっかくの申し出をお断りした。

この機中での会話が支店長会議の報告に役立ったことはいうまでもない。この話をある米銀の友人に話したところ、もし彼の事務所を訪問して同じ質問をしたら、高額の費用を請求されたにちがいない、とからかわれた。

同氏は、私が日銀を去った翌年、連邦準備制度議長となった。会議などで顔をあわせることもあるが、私を記憶しているかも疑わしいので、上記の話を持ち出したことはない。しかし、私にとっては、忘れがたい四半世紀程前の楽しい旅のひとコマであった。(2005年12月記)
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