2016年06月24日 17:00 〜 19:30 10階ホール
「原爆で犠牲となった米兵捕虜」 森重昭さん、伊吹由歌子さん会見/上映会「Paper Lanterns 灯籠流し」

会見メモ

広島を訪問したオバマ大統領とハグしあった被爆者、森重昭さんが、自らが取りくんだ原爆で犠牲になった連合軍捕虜の調査について話した。連合軍元捕虜との交流に取り組み、映画「Paper Lanterns 灯籠流し」の制作も手伝った伊吹由歌子さんも話した。
森さんの著書『原爆で死んだ米兵秘史』
司会 川戸恵子 日本記者クラブ企画委員(TBSテレビ)


会見リポート

米兵捕虜12人の被爆死をたった一人で突き止めた森さん

中井 良則 (日本記者クラブ顧問)

2016年5月27日、広島平和記念公園。森重昭さんはオバマ米大統領の演説を最前列で聞いた。大統領は話し終わると森さんに歩み寄り、ハグして背中をさすった。その映像は世界中の新聞、テレビが使うほどインパクトがあった。

 

しかし、大統領の相手がだれなのか、なぜそこにいるのか、ただちにわかった人は多くはいなかった。実際、NHKの現場中継は森さんがだれかわからなかったらしく「被爆者」というだけで氏名も伝えなかった。

 

原爆を使って無辜の市民を殺した米国の指導者が71年後、年老いた被爆者を抱きしめ和解に至った、と世界の多くの人が解釈しただろう。

 

だが、あの光景はそんなに単純でわかりやすく美しい物語の結末ではなかった。あの日から森さんの生活は様変わりし、次から次へと取材を受けた、という。森さんが語ったのは、米兵捕虜12人が被爆死した事実をいかにたった一人の被爆者が突き止めたか、という複雑で重く、聞く者の心を揺さぶるストーリーだった。

 

日本記者クラブで79歳の森さん本人が語った時、少なくとも4つのメッセージが重なり合っていた。

 

第1に、小学生だった森さん本人の壮絶な被爆体験。

 

第2に、あの日、広島で被爆死した米兵捕虜が12人いたと特定し、一人ひとりの遺族をみつけるまでの長い調査。

 

第3に、公的な記録の誤りを正した歴史家の意地。

 

第4に、大統領に抱きしめられ、ついに業績を認められたという自負。

 

 

■キノコ雲の中にいた

 

「ピカドン、というがそんな簡単なものじゃない。あの時、私はキノコ雲の中にいた。すさまじいものですよ、原爆というのは。簡単な表現で書かれてたまるか」と爆心地2.5キロで被爆した瞬間を話した。

 

おむすびを配給していると聞いて向かった己斐(こい)国民学校は死体の山だった。「何百人も積んであった。口を思い切り開いて。死体は真っ黒で膨れ上がり人相はわからず、手掛かりがない。肉親かどうか金歯で確かめようとしたんです」

 

この被爆体験が米兵捕虜探しにつながる。直前まで通っていた済美(せいび)国民学校は生徒全員が亡くなった。その中になぜか一人、米兵捕虜の遺体があった。

 

「自分の運命がこの米兵と同じであったとしてもおかしくない。どうして捕虜が死んだのか。そう思ったのが最初です」

 

あの日、広島には米兵がいたと人々は語り継ついできたが、米軍は、被爆した米兵捕虜はいない、と長い間、否定し続けた。

 

 

■たった一人の調査

 

1974年から75年にかけてNHKが視聴者から原爆の絵を募集した。二千枚以上の絵をすべて見ると、米兵を描いた絵が二十数枚見つかった。絵を描いた被爆者を訪ね、あの日の状況を聞いて回ることから、森さんの調査は始まった。

 

少しずつ情報を集め、7月28日の呉沖海空戦で撃墜された米機の乗員が捕虜となり、広島の中国憲兵隊司令部で尋問されていたことがわかる。

 

米兵の被爆死者として森さんが確定したのは12人。いまでは全員が原爆死没者名簿に記入され、原爆慰霊碑に納められ、遺影も公開されている。

 

「だれの支援も受けず、たった一人で、外国に行かず、やってきた。捕虜が乗っていた墜落機はロンサム・レディと呼ばれ≪孤独な貴婦人≫だったが、まさに私も広い太平洋に一人で釣りをしているような気持だった」

 

名前を特定しただけでは終わらなかった。死没者名簿に登録を申請するよう遺族へ連絡したのも森さんだ。名前だけを手掛かりに国際電話をかけ、膨大な時間とお金をかけて一人ずつ、連絡先をみつけた、という。米国政府からは「日本で戦闘中、行方不明」という通知しか受け取っていない遺族も多かった。

 

「遺族に手紙を出しても、なかなかうんといってくれない。平均して一人に7通は書いた。繰り返し書いて、やっと返事が来た。涙が出ますよ。ポストに向かって頭を下げた」

 

大統領にも手紙を書いた。「大使館に宛先をどう書けばいいか聞いて≪プレジデント・ウィリアム・クリントン USA≫と送ったら、ちゃんと届いた。大統領は忙しいので代理です、という人から返事がきて、(ある捕虜の)お母さんとお姉さんが遺族だとわかった」

 

調査は今も続く。日本記者クラブで話す2日前にシンガポールに住む日本人から森さんに電話がかかってきた。その人の祖父は憲兵隊の通訳だったが、祖父から聞いた話をぜひ遺族に知らせたいという。

 

「捕虜の一人は自分が生きていたことをアメリカの両親に伝えてほしい、とトイレの紙に名前と住所を書いて(祖父に)渡そうとした。でも、見つかったら自分がスパイとして処刑されるので、受け取ることはできない、といったそうです」

 

森さんは最新の情報を話し「捕虜の調査は涙、涙、涙です。(遺族からの)手紙に涙のあとがあった。3通に涙のあとがあった」とまた、声をつまらせた。

 

 

■事実を確かめる歴史家の執念

 

森さんは歴史家として、丹念な調査で事実を求めた。証人を探して話を聞き、米軍資料や日本軍がGHQに提出した文書の矛盾と誤りをみつけ、真相に近づいた。

 

たとえば、「己斐国民学校で800人の死体を焼いた」という記録があった。現場にいた子どもだった自分の記憶では2倍から3倍はあったはずだ。「私は38歳になっていたけど、目撃者を捜して歩いた。実際に死体の数を数えた人がいた、とわかり、調べたら青森にいた。連絡するとその人はもう亡くなっていた。家族に調べてほしいと頼んだ。3年かかって返事が来た。2300人でした」

 

 

■「大統領は私の気持ちを酌んでくれた」

 

オバマ大統領とのハグは森さんにとって、ひとつの到達点だったようだ。

 

「やっとアメリカ政府が認めてくれた。これ以上うれしいことはない。私の気持ちを大統領が酌んでくださったに違いない、と思った。気持ちが世界の人に伝わった、とうれしかった。(ハグに)シナリオがあったわけじゃない」と話した。

 

オバマ演説について聞かれると「本気で取り組んでいると思いました。素晴らしいじゃないですか。そう思われませんか。使命を心に抱いて世界の平和に貢献する人だ。口から出まかせとは違う。あの演説は素晴らしい」と絶賛した。

 

オバマ大統領は広島演説で、「広島で亡くなった方々」の中に「10万人を超える日本人の男女そして子どもたち、何千人もの朝鮮半島出身の人々」と並んで「12人の米国人捕虜」をあげた。さらに「この地で命を落とした米国人の遺族を探し出した男性がいます。彼らが失ったものは自分が失ったものと同じだと信じたからです」と述べ、森さんの仕事を称えた。(米国大使館ウェブサイトの日本語訳による)

 

森さんのジャケットには大使館からもらったという日本と米国の国旗が交差するピンバッジが光っている。

 

 

■簡単に「感動の和解」といえない

 

ハグまでのシナリオはなかったにせよ、演説を終えたオバマ大統領と森さんが会ったのは米国側の演出だ。

 

中国新聞が、実は米国政府は森さんの存在を知らなかったという信じられない話を伝えている。

 

5月上旬、オバマ広島訪問の発表前、訪米取材した記者が「米国政府関係筋」に、原爆犠牲者には米兵捕虜もいる、と話すと、相手の態度が変わり「知らなかった」とメモをとった。記者は、シゲアキ・モリという被爆者が私財を投じ調査していることを伝え「会って一緒に日米の犠牲者を悼んでもいいのではないか」と話した。

 

広島訪問の数日前、森さんの連絡先を尋ねる電子メールが届き、すぐに回答した。そして訪問の翌日には、「よいアイデアを与えてくれたと謝意を表すメール」が届いた、という。(2016年6月1日、中国新聞「ヒロシマ平和メディアセンター」金崎由美記者)

 

一人の被爆者が生涯を費やさなければ、12人の捕虜が自国の原爆で亡くなった事実は埋もれたままだった。しかも、そのこと自体、米政府は直前になって知ったことになる。あの光景を感動の和解と呼んで美化するのは単純すぎるだろう。あまりに重い森さんの人生にことばを失う。

 

森さんの著書『原爆で死んだ米兵秘史』(潮書房光人社、初版2008年)は「オバマ大統領と通じ合った心」と題した森さんの文章を加え、改訂版が発行されたばかりだ。

 

 

■元捕虜と続く交流

 

森さんに続いて、伊吹由歌子さんが、戦後、連合軍の元捕虜と積み重ねてきた交流について語った。伊吹さんは元英語教師で、民間組織「捕虜 日米の対話」東京代表。米兵捕虜が作っている組織の会合や日本を訪問した元捕虜たちの写真を紹介した。

 

「バターン死の行進」の捕虜たちが集まる「バターンコレヒドール防衛米兵の会」総会が今年5月、開かれた時、伊吹さんも訪米して参加していた。ホワイトハウスから、オバマ広島訪問の式典に元捕虜も出席してほしいと招待され、元捕虜たちは喜んだ。伊吹さんも広島に同行することになった。翌日、招待は取り消され、元捕虜は失望した、という。

 

米兵捕虜は使役された日本企業を相手取り訴訟を米国で始めたが、日本政府だけでなく米政府もサンフランシスコ平和条約で解決済みという立場を譲らず、敗訴した。「米兵は自分の国の政府と戦っているんです」

 

第2次大戦で約3万6000人の連合軍捕虜が日本国内の約130か所の収容所に連行され、企業や鉱山で強制労働を強いられた。死亡者は約1割の約3500人にのぼる。

 

連合軍捕虜については民間組織「POW研究会」「捕虜 日米の対話」のウェブサイトに詳しい情報がある。

 

 

■「ペイパー・ランタン」 プレス向け初の上映

 

森さんと伊吹さんの会見が終わり、米ドキュメンタリー映画「Paper Lanterns 灯籠流し」(バリー・フレシェット監督)が上映された。冒頭、映画の音楽を担当しエンディングソングを歌った藤沢麻衣さんがフレシェット監督のメッセージを読み上げた。

 

「作品を制作したのは、ほとんど世に知られていない事実を記録するためでした。戦争が引き起こす恐ろしい結果の物語です。同時に、一人の人間がどれほどの変化を起こせるか、の物語でもあります」

 

映画は、森さんを主人公に、米兵捕虜の運命をさまざまな証言でつづる。広島を訪れた捕虜の家族が森さんとともに、慰霊の灯籠を川に流すシーンが印象深い。

 

日本でプレス向けの初の上映会だった。もっと多くの人が見られる機会が広がればいい。


ゲスト / Guest

  • 森重昭さん、伊吹由歌子さん/「Paper Lanterns 灯篭流し」

    日本 / Japan

研究テーマ:原爆で犠牲となった米兵捕虜

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