取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
「ディオバン事件」不正追及/医学界の深い闇はえぐれず(浅井 文和)2026年5月
「奨学寄付金があるほど、実力があると認められる。寄付金をできるだけ集めるのが、教授の仕事だと思っていた」
2016年3月、東京地裁の公判に証人として出廷した京都府立医科大学の元教授はこう語った。高血圧治療薬ディオバン(一般名バルサルタン)に関する論文の不正が問われた「ディオバン事件」の取材で印象深かった場面だ。
元教授はディオバンの製造発売元である製薬大手ノバルティスファーマから年間3千万円の奨学寄付金を受け取って高血圧治療薬の臨床研究を始めた。しかし、肝心の研究データの統計解析はノバルティスの元社員に丸投げしていた。患者に役立つ研究が本分であるはずの医科大学教授が金集めを語るのを聞き、思わずため息が出た。
裁判の判決などによれば、ディオバン事件は、多数の高血圧患者を対象にディオバンの効果を調べた臨床研究で、製薬会社の元社員がデータを意図的に改ざんし、大学の研究者がこの薬が脳卒中や狭心症を防ぐ効果が高いとする不正確な臨床研究論文を公表したとされる事件だ。ノバルティスはディオバンには優れた効果があるとして医師向け雑誌などで宣伝し、売り上げを伸ばしていた。
「不正記者」に任命されて
患者も医師も安全で効果が高い薬を使いたいと願う。根拠にもとづく医療が重視され、医師は論文や診療ガイドラインを信用して薬を選ぶ。その根拠となる論文データが改ざんされたものであったならば、研究倫理上の罪は重い。
最高裁まで争われた裁判を経た今では、以上のように事件を要約して言える。しかし、2012年ごろから朝日新聞でこの事件の取材に携わっていた私には、当初、いったいだれがどのような方法でデータを改ざんしたのか、真相にたどりつく道筋が全く見えなかった。医学・医療担当記者として、病気の予防や治療、患者体験、医療制度や医学研究の記事を多数書いてきたが、研究不正はとてもマイナーな分野だ。ノウハウを教えてくれる先輩記者はいない。それでも研究不正の取材にのめり込んだ。部内の持ち場表に「浅井 不正」と記載されて不正記者が誕生した。「不正担当記者ではありますが、不正をする記者ではありません」と冗談を言ったものだ。
京都府立医大のディオバン論文を問題視する最初の記事が朝日新聞に載ったのは2013年2月。論文中のデータに致命的な問題があるとして欧州の学会誌が論文掲載を撤回したという内容だった。ただ、大阪の記者が書いた記事の掲載は大阪本社版だけ。東京には載らなかったことからして、注目度の低さがわかる。論文撤回の直後にノバルティス日本法人社長の定例記者会見があった。私は「京都府立医大への資金提供はあるのか」「社員の関与は」などと矢継ぎ早に質問した。しかし、他社の記者からは質問が続かず、メディアの関心は低かった。
突破口は利益相反問題
だれが改ざんしたのかという核心は不明だったが、真相への突破口はあった。利益相反問題だ。論文には統計解析担当者としてノバルティス社員の氏名が記載されていたが、その肩書きは大学所属に見えるように記されていて、社員の身分が明示されていなかった。製薬会社の社員が研究に参加することがただちに不正には当たらない。しかし、薬の製造販売元という利害関係がある会社の社員であることを明示せずに参加することは利益相反マネジメントの不備とみなされる。
5月にはノバルティスの社内調査報告の記事を書いて新聞1面に載った。元社員が「臨床研究に関与しながら、論文には社員の身分を明示しなかった」という内容だ。前述の記者会見で社長が社員の関与を否定していたことも問題になった。論文を熟読していた私は元社員の関与を知っていた上で社長に質問していた。論文の外形的な不備を突いて外堀を埋める作戦だった。
製薬会社から医師への講演料や奨学寄付金の支払いなど医学界の利益相反マネジメントに関する記事を以前から書いていた。利益相反問題に詳しい専門家とのつながりが取材に役立った。
7月には京都府立医大が記者会見で論文にデータ操作の不正があったことを認めた。厚生労働省は8月に調査委員会を立ち上げた。しかし、だれが改ざんをしたかは特定できない。結局、元社員が薬事法違反の疑いで起訴され、東京地検特捜部が押収したパソコンやUSBメモリーなどを証拠に捜査を進め、改ざんの詳細を解明した。そして、冒頭の東京地裁の公判に至る。
公判でもうひとつ印象的だったのは、京都府立医大の元教授の下で研究のまとめ役だった医師が患者データに架空の補足説明を加筆していたという証言だ。学会発表の締め切りが迫っていたのに急いで間に合わせるためだった。医師は「後ろめたい気持ちがあった」と述べた。上司からのプレッシャーの中での板挟み。「白い巨塔」を思わせる医学界の権力構造が見えてきた。
2017年3月の東京地裁判決。被告の元社員と法人のノバルティスファーマはいずれも無罪。元社員による意図的な改ざんはあったが、虚偽記述・広告を問われた薬事法について罪はないとされた。直前の1月に私は朝日新聞を退社していたが、2時間半にわたる判決を法廷で傍聴した。その時の感想は「研究不正を法で裁くのは難しい」。研究倫理上の罪があったとしても裁判所で裁くことはできない。
問題提起の医師を継続取材
長い道のりとなったディオバン事件の取材で、常に方向性を示してくれたのは、元東京都健康長寿医療センター副院長で循環器内科医の桑島巌氏。何度も取材に応じてくれたが「根源的な問題は、臨床研究が医師らの功名心から進められたこと」と手厳しく批判し、「研究不正をなくすには法律で規制するしかない」と主張していた。問題の京都府立医大の論文が発表されたのは2009年。当時から桑島氏は論文を「信頼性が劣る」と問題提起していた。
ディオバン事件の不正を徹底的に書いてきた私だが、力不足で書けなかった話がある。医学界の深い闇についてだ。公判で聞いた元教授らの証言は不正を起こしてしまう医学界の権力構造を示唆していた。さらに「闇」の実態の取材を進めたが、残念ながら記事には至らなかった。
「世界で研究不正が蔓延」
2018年4月。米国アリゾナ州フェニックスにあるホテルの会議場。私は米国のヘルスケアジャーナリスト協会(AHCJ)全国大会に参加した。約700人のジャーナリストが4日間の日程でさまざまな医療問題についてパネル討論で意見を交わす。香港など米国外からの参加者もいたが日本からの参加者は私だけ。ディオバン問題を追い続けた私は研究不正をテーマにしたパネル討論に出席した。「個人別集計で撤回論文数が世界で最も多い研究者は日本人」と手厳しく指摘したのはAHCJ会長のアイバン・オランスキー氏。研究不正を追及する活動で世界的に有名なジャーナリストだ。撤回論文数は年々増えていて世界中で研究不正が蔓延していると語った。
オランスキー氏とは懇親会でワインを飲みながら日米の不正記者同士、意気投合した。一致したのは、記者は「疑問を持つこと。疑い深くなること」。研究不正がなくならない中、記者はさらに不正を追及すべきだが、少なくとも不正な論文にだまされて間違った情報を拡散してはいけない。不確かな情報が広く流通している今こそ、自戒したい。
▼あさい・ふみかず
1958年生まれ 83年朝日新聞社入社 長崎支局 西部本社経済部 東京本社科学部 大阪本社科学医療部次長 東京本社編集委員など 2017年1月退社 19年東京大学大学院医学系研究科公共健康医学専攻修了 公衆衛生学修士(専門職) 20年から日本医学ジャーナリスト協会会長 共著に『裁かれる核』(朝日新聞社)など
