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岡村幸宣さん 原爆の図 丸木美術館学芸員/戦争の記憶つなぐ強い力(中村 公美)2025年11月

 「芸術は記憶をつなぎ、次の世代の道しるべとなり、背中を押す力がある」―。そう話すのは、埼玉県東松山市の「原爆の図 丸木美術館」の岡村幸宣学芸員(51)だ。岡村さんは2001年に同美術館初の学芸員になり、丸木位里、俊夫妻(ともに故人)の作品を中心に芸術表現と社会のかかわりについて研究を続けてきた。

 

「戦争と芸術」の取材に助言

 戦後80年を迎えた今年。戦争を直接知る人たちはそう遠くない未来に存在しなくなってしまうだろう。そのときにどう伝えていくのか。そうした思いから、国境や時代をも超え人の心に届く芸術の役割がより大きくなるのではと、「戦争と芸術」に焦点を当てた企画や特集の取材にあたった。その中で軸になったのが丸木夫妻による連作絵画「原爆の図」(全15部)で、取材の過程で岡村さんに多くの助言をいただいた。

 位里は広島、俊は北海道出身。二人は原爆投下直後の広島に入り惨状を目の当たりにし「原爆を描こう」と決意。1950年に「原爆の図」第1部を発表。32年をかけて全15部を書き上げた。

 本作は芸術性の高さだけでなく「戦争の真実を伝える」ことで重要な役割を果たした。連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、マスコミ各社は原爆に関する報道を制限された。本作は1950年から53年まで全国を巡り原爆による被害を伝え、その後海外に渡った。

 岡村さんによると、GHQの弾圧を恐れ、巡回展の資料は主催者らが処分。同美術館にも収蔵されておらず、開催地でも見つかることはなかった。そんな中、「巡回展の詳細な状況や、影響を検証したい」と岡村さんは、新聞記事などの2次資料をもとに、全貌を明らかにし、著書『《原爆の図》全国巡回』(2015年、新宿書房)にまとめ、平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞を受賞した。

 全国を巡り、資料や証言を地道に集め続け、当時の状況を明らかにした岡村さん。作品が果たした役割を、埋もれさせまいとする強い思いがあったのだろう。

 

主催者処分の資料が大量に

 そんな岡村さんから「もうないと思っていた巡回展の資料が大量に見つかった。しかも、北海道のものが一番多くて」と伝えられたのが今年7月。美術館に伺うと、作業室に約1000点超の巡回展のビラやパンフレット、入場券があった。どの資料も70年も前のものとは思えないほど状態が良かった。

 これらは、丸木夫妻の元アトリエの押し入れの奥にしまわれていた黒いかばんに入っていたのだといい、岡村さんは「丸木夫妻が保管しておいたものでしょう」と話した。「(岡村さんが)苦労して調べた巡回展の資料は、こんなにも身近に眠っていたのですね」と思わず漏らすと、岡村さんは「これらの資料は丸木夫妻からのメッセージのよう。戦争の記憶を伝えるため、巡回展が果たした役割を改めて考えなければ」と話した。

 1967年に開館した「原爆の図 丸木美術館」は、大規模修繕のため、2027年5月まで休館中だ。岡村さんは「今も戦禍は絶えることはない。戦争で痛めつけられた人を正面から描いた『原爆の図』は、その時代ごとに命を考えるきっかけになる。着実に引き継いでいかなくては」と同美術館の再開後を見据える。芸術作品の持つ力は大きい。そして、岡村さんのように作品を守り、理解を深め、多くの人に届ける存在があってこそ、つながり、新たな力を生むのだと感じている。

 

(なかむら・くみ 1993年北海道新聞社入社 東京政経部 文化部などを経て 2023年から東京報道部編集委員)

 

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