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福島重雄さん 元裁判官/「良心のみに従って」を実践(井田 香奈子)2025年9月

 良心のみに従って仕事する。その実践を、飾らずに話す人だった。

 元裁判官の福島重雄さんにお会いしたのは2015年6月。安全保障法制関連法案が出され、集団的自衛権の行使が憲法にかなうか、国会で大論争になっていた。政権側は、違憲だと最高裁が言えばそれに従うと、半ば開き直っていて、たまらなく話を聞きたくなった。

 福島さんは、自衛隊は憲法違反だと指摘した1973年の長沼訴訟札幌地裁判決の裁判長だ。戦後80年間、自衛隊や在日米軍について最高裁は憲法判断を避けており、今となっては、そこに踏み込んだ珍しい司法判断となっている。

 それだけではない。裁判の過程で地裁所長から「慎重にやれ」と干渉され、違憲判決を避けるよう遠回しに促す手紙まで届いていた。福島さんはそれを公にし、国会による訴追の検討対象に。60年代後半以降、裁判官への統制が強まった「司法の危機」を象徴する出来事で、札幌で裁判の取材を始めた私も、引っかかりを感じ続けていた。

 連絡先をたどっていて初めて知ったのだが、福島さんは同じ富山高校の同窓で、私の両親の家から数㌔の場所で弁護士を開業されていた。聞くべき人は一番近くにいた。

 

「逃げたら司法の信頼失う」

 長沼訴訟とは、自衛隊の基地建設計画で保安林の指定が解除され洪水のリスクが高まったとして、周辺住民が起こした裁判だ。福島さんたちは、自衛隊幹部ら24人の証人を採用し、丹念に調べた。

 憲法学者の大多数が自衛隊を違憲だと考えていた時代だった。福島さんは、「『統治行為論ですから私はやりません』と逃げれば、司法への信頼は失われると思った」と当時を振り返った。

 判決後、再び裁判長になることはなかった。東京地裁手形部、地方の家裁を経て、定年を前に退官した。その後は、研究者や記者の取材を受けることもあったが、「担当裁判官として当然のことをやっただけ」と語っていた。

 話を聞いていて意外だったのは、思っていたような裁判官人生を送れなかった無念さを、率直に口にされていたことだ。

 「最高裁の意向に反する判決を書く以上、冷や飯を食わされると予想はしていた。でもまた、民事裁判官として合議の事件をやりたかったよね」。同期の昇進に「ああ、俺もあいつと成績は変わんなかったのに」と感じ、「そういうところから全く外れちゃった」と話した。

 それ以上に強かったのは、自分の仕事に対する納得感だろう。六法全書をめくり、裁判官は良心に従って独立してその職権を行い、憲法と法律にのみ拘束される、という憲法の規定を、私に読んで聞かせた。「裁判官は、最高裁に完全に拘束されているわけではないんですよ」とも。

 裁判官は担当事件を選べない。たまたま担当した事件で人生まで変わるとは。すっきりしない様子の私に「裁判官だって特殊じゃない。どこの会社も同じなんじゃないの」と返ってきた。

 

迷ったときに思い出す

 それから、原稿や紙面づくりで迷ったとき「良心に従ったらどうなる」と考えることがあった。簡素な事務所で、自ら電話をとっていた福島さんを思い出した。福島さんは今年2月に亡くなったが、これからもそれは変わらないのではないかと思う。

 

(いだ・かなこ 1992年朝日新聞社入社 社会部 ブリュッセル支局長 論説委員 現在 オピニオン編集長代理)

 

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