取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
戦後80年にあたり/戦争、暴力 足元から考える(大久保 真紀)2025年1月
50分の3。この数字は、何を表していると思いますか。
昨年の晩秋に日本記者クラブの事務局から、「新春随想」執筆の打診がありました。私は60歳を超えましたが、1年生時代と同様にあちこちを走り回っている身です。お断りしようかとも悩みました。
50年で3人目の衝撃
ところが、事務局から届いた資料を見ると、1976年から始まったこの欄の執筆者は男性ばかり。女性はなんと、97年の増田れい子さんと2003年の藤原房子さん、大先輩のふたりしかいません。つまり50年で私が3人目ということです。
はて?
適任かどうかはさておき、これではお断りするわけにはいきません。
私はいわゆる男女雇用機会均等法第1世代です。同法が施行された86年が1年目の就職試験でした。新聞社をできる限り受けましたが、どこにも入れませんでした。最終面接で落ちた朝日新聞には人事部の人から「君が男だったらなあ」と言われる始末。いまなら完全にアウトです。私は留年し、懲りもせずに翌年も朝日を受け、なんとか拾ってもらいました。新人社員に占める女性の割合は約1割でした。
報道界でも最近は女性の採用はぐんぐん増え、部長や編集局長を女性が務める社も出てきています。時代は確実に変わっています。
とはいえ、昨年のNHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」は、女性たちの間で大ヒットし、私自身もドはまりしました。
「頭がいい女が確実に幸せになるためには、頭の悪い女のふりをするしかないの」
「そうやって女の可能性の芽を摘んできたのは、どこの誰? 男たちでしょ!」
いずれも、主人公の寅ちゃんの母の台詞です。約90年前の設定とはいえ、現代もまだどこかに通底するものがあると感じたのは私だけではなかったはずです。自分の経験や自分を重ねて画面を凝視していた女性たちは多かったのではないでしょうか。私の同僚は「妻が朝の15分間は何を話しかけても返事もしてくれない」とぼやいていました。
「はて? 私がいつ男になりたいと言いましたか?」
この寅ちゃんの言葉には膝を打ちました。男性と同等に扱ってほしいとは思っても、男になりたいとは、私も一度も思ったことはありません。正直に告白すると、入社後しばらくは、「女だから」と言われたくなくて、女性のテーマと言われるものは無意識に避けていた時期もありました。でも、3年もすると、肩の力も抜けてきて「自分は自分」と思い始めました。当たり前ですが、女性性は私の一部であり、私の興味・関心や視点は、自分の経験や体験が影響することは否めません。
中国残留婦人を現地で取材
二つめの支局では、戦後45年にあたる1990年に、女性たちに焦点をあてた「女たちの8・15」という連載を県版で執筆しました。
敗戦前後の混乱で中国に取り残された中国残留婦人たちを中国にも訪ねました。「残留婦人」は敗戦当時13歳以上だった女性です。政府が「残留孤児」と区別するためにそう呼びましたが、一方で、その年齢で残留した男性はほぼいません。
中国で取材した残留婦人の多くは家族や子どもの命を救うため、極貧の農家に入りました。外国人が行けない未開放地区(当時)に暮らす人もいて、その方には私の滞在する都市まで出てきてもらいました。
聞くと、長男の自転車の後ろに乗ってバス停まで5時間、そこから8時間バスに乗ってきたというのです。そんな遠い道のりだとは知らなかったことをわびると、逆に「今日は日本語が話せて幸せ」とお礼を言われました。ホテルに泊まってもらうと、「10年ぶりに湯船につかれた。ありがとう」とも。
こうした残留婦人を政府は「自分の意思で残った」とし、当時は支援も乏しく、2500人以上が日本に帰りたくても帰れない状態でした。
ここ7年は連載「子どもへの性暴力」の取材をしています。「いたずら」などと言われ、「なかったこと」にされ、真正面からは報じられてこなかったテーマです。実際に何が起こっているのか、性暴力がどれほどの悪影響を人生にもたらすのかを社会が認識しない、しようとしないから、対策や対応が遅れていると感じ、取材を始めました。
性暴力被害者を実名報道
大分県の工藤千恵さん(52)は、8歳のときに見知らぬ男にビニールハウスの陰に押し倒されて被害に遭いました。「自分が悪かった」と自分を責め、「死にたい」という思いにも駆られました。こうした反応はトラウマの影響と言われます。
性被害を受けた仲間と出会い、「生きててありがとう」という言葉をかけられたことで、前に向かって歩き始めます。しかし、いまも芝生の上に寝転がることはできません。背中があのときを覚えているからです。被害の記憶は鮮明に生々しく、心と体に刻みつけられています。
工藤さんは、性被害は現実にあることを社会に知ってもらうためにと、2019年に始まった連載の初回に実名・顔出しで出てくださいました。「いまは1年のうち330日は笑っていられる。こんな日が来ることを被害当事者にも知ってもらいたい」とも言いました。
性暴力被害者の実名報道は、当時はほぼ前例がなく、連載開始までには時に嫌になるほどの議論が社内でありました。勇気をもって過去と向き合おうとする工藤さんの凜とした姿に私は背中を押され続けました。
このシリーズには読者から約800通の手紙やメールが寄せられています。80代の女性からはこんなお手紙をいただきました。
「読んではいけないと自覚しながら、読まずにはいられず、打ちのめされる。でも、こういうことが公にされる時代、論じられること、認識されることをうれしく思う」
子どものころに10年間兄から夜に体を触られるなどの性暴力を受けたとのこと。しかし、母親からは「あなたさえ黙っていれば」と言われたそうです。「あのときから時間が止まっている。だが、人権が叫ばれる時代となり、希望があると信じたい」と綴られていました。
性被害に関して言えば、被害者は女性だけではありません。女性より被害を打ち明けにくいとされるのが男性です。故ジャニー喜多川氏による少年たちへの性加害問題では、1千人超が被害申告をしていますが、公に被害を訴える人はごくわずかです。沈黙を強いられてきたという意味では、男性も女性もありません。
「この問題」終わりではない
最近は「もうこの問題は終わり」という空気を感じざるを得ません。被害者一人ひとりがどれだけの苦悩を抱え、生きてきたのかということに、私たちはどれほどの思いを寄せているでしょうか。同じ体験をする人を二度と出さないための努力をどれほどしているのか。旧ジャニーズ事務所も社会もその責任はまだ果たせていないと思います。
今年は戦後80年です。世界では、いまも戦争や紛争が絶えません。戦争も暴力も時代や世代を超えて人の心を壊す力をもっています。自分にできることは何か。今年も、目の前で起きることを当然のものとは思わず、足元から考え続けていきたいと思います。
入社前、国木田独歩の小説『牛肉と馬鈴薯』を読みました。その中に私の心をとらえた、こんな言葉が出てきます。
「吃驚したいといふのが僕の願なんです。不思議なる宇宙を驚きたいといふ願です」
おおくぼ・まき▼1963年福岡県生まれ 国際基督教大学卒 87年朝日新聞社入社 盛岡 静岡両支局勤務を経て 東京本社社会部で旧厚生省 遊軍などを担当 鹿児島総局次長を経て 朝日新聞社編集委員 2021年度日本記者クラブ賞受賞 著書に『中国残留日本人』『ルポ 児童相談所』 共著に『虚罪――ドキュメント志布志事件』『ルポ 子どもへの性暴力』