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美谷島邦子さん 日航機墜落事故の遺族/「健と歩んでいく」覚悟胸に(田中 美恭)2024年12月

 1985年の日航ジャンボ機墜落事故の遺族、美谷島邦子さんとの出会いは2005年にさかのぼる。遺族らでつくる「8・12連絡会」の事務局長でもある美谷島さんを前にした私は、当時入社5年目。先輩記者の隣で緊張して小さくなっていた。

 美谷島さんは、今でも私にとっては近寄りがたい存在だ。9歳の息子の健君を事故で亡くした悲しみを胸に、空の安全や命の大切さを訴える講演活動を全国各地で精力的に続けている。国土交通省、航空業界関係者、メディアとも信頼関係を築き、他の事故や災害の遺族とも交流を深めてきた。 

 

どんな出会いも大切に

 

 幾重ものつながりの輪の中心に美谷島さんがいるのは、連絡会の「顔」を長年務めてきたからというだけではないのだろう。どんな出会いも大切にし、時には手を差し伸べてくれるような優しさが美谷島さんにはある。そして関わりを持った誰もが「事故の記憶を伝え続ける」責任の一端を担うのだと感じる。

 群馬県上野村の墜落現場「御巣鷹の尾根」に初めて登ったのは事故から丸20年、05年8月12日の慰霊登山の取材の時だ。花束を手にした遺族らが途切れることなく尾根を目指していた。至るところに立つ墓標に言葉を失った。

 乗客乗員524人のうち520人が死亡。死者数は単独事故では世界の航空史上最悪。奥深い山中で「死の重さ」がのしかかってくる気がした。

 その後、長らく事故現場に足が向かなかった。美谷島さんからは毎年、連絡会の会報「おすたか」が届いた。英文記者として日々の業務の忙しさに追われ、時間が過ぎていった。 

 2度目の登山は18年。子ども向けに企画された「日帰り御巣鷹山学習ツアー」に同行した。その約1カ月前に、美谷島さんが健君の母校で行う講演が予定されており、行きたいと思いながら、記事にできるかは自信がなかった。

 

「怖い」から「優しい」山に

 

 「記事はいいんです。聞きに来てください」。美谷島さんはそう言って、ツアーの参加も含め、私の背中を押してくれた。

 小学生やその保護者らと尾根に登った私は、不思議な感覚に襲われていた。かつては「怖い」とさえ感じた山が、さまざまな人が集い、命の大切さを感じられる「優しい山」になっていた。

 突き動かされるように、企画記事を書いた。美谷島さんに伝えると、「健に届くような文面です」と言ってくれた。

 美谷島さんの講演を聞くと、いつも胸が締め付けられるような気持ちになる。健君は大阪の親戚に会うために羽田空港から一人で飛行機に乗り、事故に遭った。夏休みにプールで25㍍を泳げるようになったご褒美の冒険旅行のはずだった。甲子園観戦を楽しみにしていた少年。見つかった遺体は右手と胴体の一部だけだった。

 深い自責の念が美谷島さんを苦しめた。「健ちゃんといつも一緒」と思えたのは5年後。息子のことを、子ども向けの講演で話せるようになるまでに約30年かかった。

 「『事故がなかったら、違う人生を過ごしていたかもしれないね』と言われたことがある。でも私はこの人生しかないし、健と歩んでいく」

 18年に取材したときの美谷島さんの言葉だ。この覚悟が生まれるまでの葛藤に思いをはせると、自分が記者として向き合っているものの重さを感じる。私なりに何ができるかを考え、前に進まねばと思わせてくれる言葉だ。

 

(たなか・みや 2001年共同通信社入社 国際局海外部で英文記者)

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