取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
大田昌秀さん 元沖縄県知事/「沖縄は日本か」問い続け(塩入 雄一郎)2023年12月
元沖縄県知事の大田昌秀さんに初めてお会いしたのは、西日本新聞の記者だった8年前の2015年12月。沖縄県名護市辺野古の新基地建設に伴う埋め立て承認取り消し処分を違法として、国が翁長雄志知事を相手に起こした代執行訴訟の第1回口頭弁論を取材した時だった。
基地を巡って国が県を訴えた訴訟としては、1995年の代理署名訴訟がある。代理署名は基地を米軍に提供するため、強制的に継続使用するにあたり必要な県知事の手続き。大田さんは、沖縄が抱える過重な基地負担などを理由に拒否を表明し、村山富市首相が代理署名の勧告に続き命令を出したが拒否。これを受けて、国側が提訴した。
大田さんは翁長知事に対して何を思うのか。2度も提訴した国のやり方をどう見ているのか。どうしても本人の口から聞きたくなり、出張を1日前倒しして大田さんがいる沖縄国際平和研究所を訪ねた。
「構造的差別 続いている」
お会いした大田さんは、早口で息継ぎをしないようにしゃべり、語る。90歳とは思えない。インタビューは3時間近くに及んだ。「沖縄は日本だと思うかね」と何度も問われ、返答に窮したのを覚えている。
インタビューで記事にした言葉は、佐賀空港での米軍オスプレイの訓練移転が佐賀県側の反対で撤回されたのに、辺野古の計画が撤回されないことに「沖縄だけ主従関係が続き、構造的な差別が続いている」と悔しさをにじませた部分だった。
大田さんは自身の裁判でも、68年の九州大学への米軍ファントム機墜落事故をきっかけに大半が返還された米軍板付基地に触れて、沖縄との二重基準の批判をしている。
私のインタビューでもファントム機の事故の事について話をしていた。ただ、私はその部分は紙面に載せなかった。事故を巡る大学紛争に参加した元学生たちを取材していたこともあり「板付の基地返還はあくまで闘ったことの成果だ」と考えが違ったからだ。運動に、ケチを付けられたような気がしたというのもある。
「捨て石」なぜ 究明使命に
だが、当時の私はとても浅はかだったと今は思う。転職して沖縄に住んでみて、あの時の大田さんと同じ思いを強くしているからだ。
飲酒運転に空き巣など米兵が起こす事件は毎週のように起こっている。米軍機のオスプレイの騒音は午後10時を過ぎても聞こえてくる。市民による反対集会は毎日のように県内のあちらこちらで開かれている。国は沖縄だから無視するのか。「沖縄差別」という言葉が頭に浮かぶ。
10月30日は、辺野古の新基地建設を巡る改良工事で、国が玉城デニー知事に代わって設計変更を承認する代執行訴訟の第1回口頭弁論があった。デニー知事は沖縄が抱える理不尽な歴史や現状を訴えたが、裁判官が質問することはなく、37分間で弁論は終結した。大田さんはインタビューで「日本は三権分立が確立されていない」と批判したが状況は変わっていない。
「沖縄は日本か」との問いかけは、大田さんが自身に問い続けた言葉でもあったように思う。インタビューでは沖縄戦で学徒動員され、「捨て石」にされた状況をたくさん見てきたとも聞いた。なぜそうなったかを究明するのを使命だと学者の道を選んだそうだ。
大田さんはインタビューの2年後、92歳で亡くなった。大田さんの言葉を聞いた私は「沖縄は日本か」を自問し、沖縄メディアとしてどう報じていくべきかを考えている。
(しおいり・ゆういちろう 2000年西日本新聞社入社 佐世保支局 社会部 東京報道部などを経て 23年沖縄タイムス社へ 現在 社会部記者)